女装めしっ!
冬寂ましろ
第1話 恵比寿のカジュアルフレンチ
敵は何かと聞かれたら、それはアブラギッシュでハゲ散かしたような男の人だ。男というのは、年齢とともにみにくく気持ち悪く育っていく生き物だ。にきびが出れば月のクレーターのような外見になるし、においも放置した生ゴミのように日々きつくなる。正確はどんどん怠慢になっていき、下半身だけで物事を考えだす。近くにいるとひどく不安にさせられる。とくに、いっしょにご飯を食べたり、男の人と話をする、という行為が中学からすごく嫌になった。高校に入った今では、そんなふうになっていく男の子たちが同じ教室にいるので、登校すらできない。
そして、僕も男である。
恵比寿の駅を降りて、そのまま右の食べ物屋さんが立ち並ぶ通りをスカートの裾を気にしながら歩く。いつものようにちょっと恥ずかしい。昼間のよい時間のせいか、働いている人たちがお昼ご飯を求めて腹ぺこゾンビのようにさまよっている。
松浦さんが言ってたカジュアルフレンチのレストランを探していた。わりと早く看板は見つけたものの、なんとも言えないこの感じ…。一見したら夜のお店も入っているいかがわしい雑居ビルで、足を踏み入れるのには、ちょっとどころかかなり勇気がいる。「隠れ家的なレストランで女性客だらけだ」と松浦さんは言ってたけれど、これは隠れすぎだろうと思った。
しかし、おなかがすいていた。松浦さんが言ってたお店は、今回もおいしいだろう。前に紹介してもらったところも、店の雰囲気が落ち着いてておいしかった。そのために今日の朝ごはんも控めにしてきた。
うーん、帰る? でもせっかく来たし…。
こうなんで、すっきりとそのままお店に入れないのか、自分の自信のなさにがっかりとする。
なにしろいまは恥ずかしい。そう恥ずかしい…。だんだん恥ずかしさが死にそうなレベルに上がっていく。
それは…女の子の格好をしているせい。
わかってはいるんだけれど。
でも、女装してでも食べたいご飯がそこにある。そこにあるんだっ!
お店はビルの5階にある。うーん、エレベータまでが遠く感じる。じわじわとビルに入り、エレベータの前に出る。ボタンを押そうとしたら、エレベータの扉が開いた。大人の女の人っていう感じの人が、ふたりで出てきてにぎやかに話している。
「でねー、鹿野さんが悪かったのよ。あのとき連れ出しておいたら…」
「あ、鹿野さんをここに連れてくればいいんじゃない?」
「そっか、ここのご飯おいしかったし。喜ぶよね」
「ここのコンフィおいしかったね」
顔を見られないようにうつむきながら、おいしかったという言葉を聞く。ああ、松浦さんを信じよう。そして松浦さんにおいしかったって明日言おう。いま、そう決めた。
ボタンを押し、エレベータに乗る。目の前の鏡には、長めのスカートをはいて、髪もボブショートにした、少しゆるふわ系になっている自分の姿が映る。ひらっ、ひらっ、と回ってみる。昨日買ってきた赤い伊達メガネが、僕の防御策。うんうん、かわいいぞ。これで男であるという正体もバレにくいはずだ。よしっ。
エレベータの扉が開くと、目の前にお店の扉があった。薄緑色の華奢な作りだった。ゆっくり開けてみる。ひどくどきどきする。店は少し薄暗い。南欧風とでもいうのだろうか、アンティークなソファと淡い緑色の棚が見える。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
ショートカットが似合う女の店員さんが声をかけてくる。声を出したら正体がバレる! ゆっくりこくりとうなずく。
「こちらか、あちらにどうぞ」
赤いソファの席を選んだ。座ってみると…、うわっ、ふかふかだ。体が沈み込んでテーブルがすごく近くなる。あはは。ちょっと楽しくなってきた。
お店の人がメニューをすっと差し出す。僕はあわてて座り直して、遊んでいたのを笑われていないのか心配する。
「こちらメニューです。決まりましたらお呼びください」
ランチがおいしいって松浦さんは言ってたけど…。何を頼んだらいいんだろう? カレーとかもあるけれど、ここはフレンチだよね…。さっきの人たちは、コンフィ、とか言ってたっけ? コンフィって何?
「本日のプレートは、骨付き若鶏のコンフィになります」
そうそれコンフィ!
店員さんを呼ぶために大きな声を出すのなんて最悪だ。いまのうちだ。
「…すみません。それを」
蚊の鳴くような声って、いまの自分の声だろうなとふと思う。
「はい、お飲み物は?」
え、また喋るの? え、えと…。
「…アイスコーヒーで」
「わかりました。少々お待ちください」
店員さんが離れていく。ほっとする。
注文したらすこし落ち着いてきた。まわりを少し見ると、女の人しかいない。ほんとに男の人がいない。そのことに少し安心する。自分はこの場に溶け込んでいるのだろうか? たぶん大丈夫なんだろう。僕には、好奇心の目や蔑まれたような目を向けられていない。みんな他愛もない話を真剣に楽しく話している。さっそく付けてみたヘアネイルの新色の話。テレビのドラマで主演がおかしいことを言ってた話。職場の同僚が持ってきた微妙な味のおみやげの話。
そんな会話を少しずつ聞いていると、気持ちが柔らかく溶けていく。僕はこの感情が好きだ。このおだやかな空気は、少しの異物でもあれば、すぐ壊れてしまう。だから、だからこそ僕は…。スカートを軽く握りしめる。女の子の格好をしてきてよかった…。
「サラダです。料理はもう少々お待ちくださいね」
サラダがおいしいお店には外れがない。僕はそう信じてきたけれど、ここもそのようだった。ドレッシングはちょっと酸っぱくて白っぽいからたぶんフレンチドレッシングなんだろうけれど、細かい刻みオニオンの食感が楽しくて、パリっとした野菜たちを引き立ててる。んっ、おいしいっ!
お野菜をもぐもぐほおばる幸せを楽しんでいたら、すぐに次の幸せがやってきた。
「コンフィです。ちょっと熱いのでお気を付けください」
うわあ。鶏肉から湯気が出てる。いい香り。おなかがとたんにぎゅーとする。コンフィって、フライドチキン? なんかパリッとしている感じ。鶏肉の横にはご飯とマッシュポテトが添えられている。
ナイフとフォークで端っこを切り出す。そしてひとくち。
ひぎゅ~。おいしいっ。よじれちゃう!
あふれちゃうよお! お口いっぱいにぃ!
鶏肉はパリッとしているのに中はとても柔らかく、噛むとあたたかいおいしさが、口いっぱいにあふれていく。普通に焼いただけでは、こんなふうにじゅわりとあふれる感じにはならないのだろう。不思議な料理だなと、瞳がハートになりながら思う。
ライスといっしょにほおばる。これもまたおいしい。ご飯と一緒に食べると甘みも加わり、なんとも幸せになれる。
次はマッシュポテトかな。フォークですくい、口に入れてみる。
ポテトってこんなにトロトロになるんだ…。
なめらかですごくトロッとしている。舌触りがとても心地いいよぉ。
どうしたらこんなふうになるんだろう…。
このおいしさ…。これが女の人しか知ることができない味…、なのかな。
しかし、骨付きチキン…。このままかぶりつきたい…。うーん。きょろきょろみる。女っぽい食べ方ってどんなんだろう。みんなどうやって食べるんだろう? こっそり周りを見ると、ナイフとフォークで器用に少しずつ食べてる。おしゃべりしながらだから、残しちゃうぽくみえる。もったいないなあと思いながら、自分も少しずつ鶏肉を取り分けていく。割と柔らかいので骨から身も外れやすい。
頬張るたびに幸せがもらえる。でもその幸せもあと少し…。 あー、落とした。拾って食べたい…。しかし女の子はそんなことしない。うう…。もったいない、最後の一口なのに…。
あ。
そうだ女の子なんだ、いま。
女の子と言えば別腹です。デザートいっちゃおうかな…。
「す、すみません。ケーキください…」
ぼそりというと女の店員さんがデザート用のメニューをすぐに出してくれた。
「今日はこちらになります」
チーズケーキやチョコレートケーキがあるっぱい…。やっぱり甘いのがいいな。それもうんと甘いの。
「このチョコレートケーキで…」
「わかりました、少々お待ちください」
どんなケーキが出るんだろう。もうただ期待が膨らむ。
そんなとき、少し甲高い笑い声がした。ひあっ、とびっくりする。声のほうを向くと、女の人がふたりで笑いあっていた。僕が笑われたのかと思った…。いまぼくはそんな恰好をしているんだ。気をつけなきゃ…。
「お待たせしました」
四角いお皿にはホイップされたクリームといっしょに、チョコレートケーキ?というかまるでレンガのように見えるものが乗っている。うーん、これは一口食べねばなるまい…。フォークで端を削り取るようにしてすくい、口に運ぶ。
それはもう濃くて甘くてほろ苦くて…。
回りに散らしたベリーのさわやかな酸味が、濃厚な甘みを引き立ててる。ケーキ屋さんにもなかなかないようなおいしさ。女の人はこうなんだと思ったら、なんかずるいな、と思ってしまった。
そんな幸せももうおしまい。もっと食べたいけれど、もうおなかいっぱい。
お会計して幸せなままおうちに帰ろうか…。姉さんが帰る前に…。
テーブルに置かれた伝票をひっくり返す。
んんーっ!
くまさんの絵がさらっとボールペンで描いてある!
かわいい!!
満たされた。心も体もおなかも。これでもう。
何もかも幸せになれる店ってすごいな。素直にそう思ってしまった。
店の外を出て駅へと歩く。みんなおいしかった。来て良かった。松浦さんの情報はいつも確かだ。おいしいものを食べたら元気が出る。笑顔になれる。恵比寿さんも心なしか笑っている顔をしている。
家に帰っても、まだ浮かれていた。自分の部屋で、ただくるくる回ってみたり。すごく楽しくて幸せでふわふわな気持ち。スマホを取り出して画面を見つめる。松浦さんにおいしかったってメッセしなきゃ。
ふと手を止める。
部屋の姿見を見てしまった。そこには、うれしそうにしている女の子…に見える男の子が一人。
自分は男だ。時間が立てば、やがて自分が嫌悪している男という生物になる。
…あたりまえ。
でも僕はそれを飲み込めない。
最初に女の子の格好をしたのは、松浦さんを驚かしたかっただけだ。姉さんの恋人、ぼくの後見人、いい人、嫌悪している男の人。そんな人にどんな感情を持てばいいのかわからなかった。ただ驚かしてみたかった。あのときは恥ずかしかったから「ごはんのために女の子の格好をしてきた」と言い訳をした。松浦さんは最初は驚いたけれど、困ったように頭をなでてくれた。その顔がなんとも面白くてやさしかった。僕はただその顔をまた見たくて…。
…だめだ。
そっちに考えを引きずられては。
僕はただごはんを食べたいから女の子の格好をしているだけなんだ。それ以上はないんだ。ただそれだけなんだ。
頭を振る。たくさん振る。
時計を見るともうかなり夜遅くなっていた。
…帰ってくる姉さんのために夜食を作らなきゃ。
服を素早く着替えて、姉さんの部屋に入る。鏡台の前に置かれていた化粧落としを取り、コットンに染み込ませて乱暴に顔をゴシゴシと拭く。
「ただいまー」
うわ、姉さんだ。慌てて立ち上がった拍子に姉さんの化粧水や香水がするすると何本も転がっていく。
「ね、姉さん、おかえりー」
「うん、ほのか? どうしたん?」
「…ちょっとつまづいて姉さんの化粧品転がしちゃった」
「ああん、もー。それ高いのに」
「ごめん…」
「いいよ、けがはなかった?」
「うん…」
姉さんから目をそらす。
「学校から連絡あったよ」
「…なんて?」
「まあとにかく学校に来なさいって」
「…そう」
「何かあればお姉ちゃんが絶対に守るからね」
抱きしめられた姉さんの体からは、お酒と化粧とたばこと、夜の街のにおいが少しした。
「苦しいよ」
「あ、ごめんごめん」
姉さんは僕を放すと、子供に諭すように言う。
「それと松浦さんをあんまり困らしちゃだめ。さっき連絡があってね。どこか行くんだって? 車出すのがめんどい、って言ってたよ」
「うん…」
「ま、たまには気分転換も必要よね。お姉ちゃんは仕事だけど、松浦さんにはちゃんと言っておくから」
「ごめんね、姉さん」
「謝ることはないよ。まあ、松浦さんはいい人だから、ね」
こくりとうなづく僕。
「それにしてもファンデの減りが早いんだよね。ねえ、ほのか…」
少しいじわるそうに笑っている姉さん。
姉さんはどこまで知っているのだろうか。姉さんへの隠し事が増えていく。これからどこまで増えていくのだろう…。
僕は何も言えず、姉さんを見ることもできず、ただ松浦さんと次に行く横浜のことをずっと考えていた。
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