case ラン・トゥー・ユー
「いらっしゃいませ、今日は暑いですねぇ。一名様ですか?こちらのお席へどうぞ。」
80年代のポップスに網目状のフライドポテトを揚げるBGMが混ざるこの小さな店内で、彼女のことを嫌う者はおそらく誰も居ない。従業員はアルバイトと併せても8人と少数であるが、そのうちの男4人は漏れなく彼女に惚れていた。勿論自分も含めて。
「深澤さん、そろそろ」
ちょうど僕の大好きなブライアン・アダムスが流れる頃、彼女と僕は同時に休憩を貰う。休憩といってもたったの十五分。されど、十五分だ。
僕の生きる二十四時間の中でも特になくてはならない十五分。恋愛経験もろくにない奥手な男子大学生が高嶺の花を独り占めできる時間。これで事の重大さは伝わっただろうか?
「ねぇ、
「いいや、まったく」
まったく、忙しい。忙しいが、もしも彼女がデートに誘ってくれるというのなら単位など幾らでも捨ててやろう。
「そうなんだ。私も今学期はあんまり授業取ってないから、遊んでばっかりだよ。」
「ああ、羨ましいなぁ。」
彼女と遊べる友人とやらが実に羨ましい。というかもしかしたら遊びに誘ってくれるかもという淡い期待を持っていた自分が少し恥ずかしい。賄いのサンドウィッチに挟まれた熟れたトマトのように頬が赤らんだ。
それからの休憩室は咀嚼音のみが響くだけであった。本当はもっと色々彼女の事について聴きたいのだ。好きな歌手は?嫌いな食べ物はある?付き合うならどんな人が良い?エトセトラ。最初の一音でも鳴らせたのならばするりとクエスチョンマークまで辿り着ける筈なのに、それすらも出来ないのが経験値の少ない男の惨状である。束の間の休息は店長の呼び声を以って終わった。
「すみません、そこの席に座ってもいいですか」
自分の不甲斐なさにため息をつきながら腰に黒いエプロンを巻き直した時、入り口のドア鈴をからりと鳴らし現れたのは化粧っ気のない素朴な一人の女性であった。この女性の事は何度か見たことがあるが、以前見たときは伸びた柔らかい茶髪をゆるく巻き、化粧をバッチリと施していた。寸秒白目の面積を広げ女性を見つめていると、横からフローラルな香りを纏った深澤さんが来て、僕の前を通り過ぎた。
「良いですよ、どうぞ。今お水をお持ち致します。」
(僕はこのハンバーガーショップで働き始めて早数年たっているけど常連の顔もろくに覚えていない。理由は深澤さんの態度。)
普段なら人一倍、否、十倍は人当たりの良い深澤さんが、何故か彼女に対してだけは態度が素っ気無いのだ。素っ気無いというのは語弊があるかもしれない、店員としての態度としては完璧なそれなのだから。けれど、何と言えば良いか、普段の彼女の客に対する態度とは何処かちょっと違うのだ。いつもと違う彼女の態度は新鮮味があってこれまた良い。けれど何故彼女の時だけなのか、その理由はサッパリ分からなかった。
(結局その日も理由は解明出来ぬまま、退勤時間を迎えた。)
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