土曜日の街角で
@ineko552
case 猫型人間
我輩は、運なし・職なし・彼氏なしの三拍子が揃った不幸な女である。
街がとっぷりと夜に沈み、めでたく三十路へ足を踏み入れた今日。ありがたい事に家に帰るとテーブルの上で合鍵と小さなショートケーキが迎えてくれた。
ありがたい事だ。
今日は彼氏(元)が浮気相手と宜しくしていないのだから。軋むベッドを見たのが昨日で本当に良かった。誕生日当日にそんな光景を見てしまったらホームセンターまで裸足で駆けて麻縄を買ってしまうところだっただろう。
「てゆーか、あたし生クリーム嫌いって言ったよね?」
生ぬるい六畳に響く独り言が寂しい。ご丁寧にたっぷりと塗られた生クリームを指にとり、一口。くどい甘さが喉を通り、慌てて流し込んだ無糖のアッサムティーが思いの外熱くて火傷してしまった。アイツのせいだ。手元のスマートフォンの検索履歴に婚活の文字が踊るのもアイツのせい。全部、ぜんぶ。
「あー、明日から何しよっかなぁ」
気分をここまで落ち込ませた原因は紛れもなくアイツだけれど、職がなくなった原因だけは自分にあった。セクハラ上司が横行する社内に耐えきれなくなり、思わず上司をグーで殴ってしまったのだ。まぁ度が過ぎる其れだったから仕方のない事といえば仕方のないことかもしれないが、喧嘩は最初に手を出した方が負けと相場が決まっている。あっさりばっさりと首を切られることとなったのだった。ついさっき、29歳最期の日の話であった。
―― 次の日目を覚ましたのは時計の針が仲良くテッペンを指した頃。久しぶりの寝坊は気持ちが良い。お怒りの電話もメールもない清々しい朝、というか昼。テーブルに置かれたショートケーキは空気に晒され随分凝り固まってしまっていた。だから捨てた。燃えるゴミとかかれた袋だったけれど、合鍵もついでに紛れ込ませてやった。
「空気。空気を吸おう」
そう呟いてからはすぐに肩甲骨あたりまで伸ばした茶の混じる黒髪をいつもより乱雑に結って、白地のTシャツにジーンズ、それにヒールのないサンダルに爪先を突っかけてバッグも持たずに家を出た。誰に会うわけでもないから化粧もせずに、財布ひとつだけをポケットに滑り込ませてお天道様の監視下へ。実に爽快な気分だった。イヤホンから流れるポップソングが足取りを軽くさせる。さあ、何処へ行こう?行く当てもなく昼の小道をゆったりと進む。
いつもは忙しなく流れていく景色も、緩やかに歩けば色々な発見があるものだ。暑さに茹だる野良犬の可愛さだとか、ある家の庭に咲く花の浄げさだとか。そこで見えたものは自分の人生に圧倒的に足りてないものであった。もし雀の涙ほどでもそれが自分に含まれていたのなら、このような結果にはならなかったのだろうか。終わったことを考えても無駄だとは分かっているのだけれど。
ところでこの女、佐々木美智子は信念としてひとつ、「イライラした次の日のご飯は思い切りジャンキーなものを食べる」というものを持っていた。ポテトチップスの大袋、ふんだんにチーズを乗せたベーコンピザ、そして小洒落た店の大きなダブルチーズバーガー。今日はバーガーの気分だった。
その小洒落た店というのは、自宅から駅ひとつぶんだけ離れたところにあった。住宅街の一角にある随分と小ぢんまりした店内で、店員がこちらに干渉して来ずに必要な業務だけをキッチリと行うそのポリシーが好きで今や立派な常連である(悲しくも、それほどイライラした日が多かったという事実がそこにはあるのだが)。だからスッピンでも全く恥ずかしくない。それにあそこのフライドポテトは網目状のサクサクしたヤツだから最高なのだ。
家を出てから15分程経っただろうか。時間も気にせずゆっくりと歩を進めていた時だった。
「み、ミチコ。」
さて、バーガーを食べるよりも先に明日の昼食を考えなくてはいけなくなってしまったようだ。
「……」
「ミチコ」
何故、水曜の真昼間。本来仕事中であろう彼が――三年も付き合っていた彼女の食の好みも覚えてないアイツが、此処にいるのだろう。どうして、どこの馬の骨やも知らぬ女を舐めまわした舌に私の名前を乗せるのだ。
「……ごめん。逃げるような真似をして。この間はどうかしてたんだ、出来心というか何というか、…とにかく、ごめん。」
真剣な顔で何度も頭を下げる彼の傍らで、美智子の心は笑っていた。ドラマでしか聞いたことのない台詞を愛していた彼が唱えていたからだ。
「やり直そうなんて言わない。でも、俺はこの三年間本当にミチコの事が好きだったよ。……それで、」
「あのさ」
「……なに?」
「アンタは、犬派?猫派?」
「ええっと……どういうこと?俺はどっちかというと、犬派だけど。」
ああ神様、やっぱり私は愛くるしい犬のような素直な人間にはなれないみたいです。
平和な陽の射す小さな通りにバチンと大きな音が響いた。
「私、犬にはなれないけれど、アンタみたいな猿は好きじゃないわ。さよなら、今までありがとう。彼女にヨロシクね、ジョージくん。」
にっこりと笑った顔のまま、再びバーガーの方へと歩き出す。未練なんてこれっぽっちもないわよ、と言うように肩で風を切った。振り向いたら彼はどんな顔をしているのだろう。情けない顔をしてればいいと思った。
小洒落た店のドアを叩けば、相変わらず業務的な態度の店員が出迎えてくれた。網目状のフライドポテトはこれまた変わらずサクサクで美味しかったけれど、今日のやつは塩っ気が少し多い気がする。
我輩は、運なし・職なし・彼氏なしの三拍子が揃った不幸な女である。名前は佐々木美智子、苗字が変わる予定はまだない。
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