背中 にじゅうし

 額から外された『背中』たちの裏側には、どれも丁寧な文字で題名が書き込まれていた。

 一番若いものが『大吾 十歳』。安っぽい画用紙に水彩で、小学生が描いたとは思えないほど上手い絵だ。

 次は『雄大 十一歳』。その次は『大樹 十二歳』。どの絵も、違う名前で、年齢は少しずつ上がっていく。水彩、版画、油絵、日本画。どれもこれも、『大』がつく名前だった。

 二十歳が『大基』。二十三歳の絵の裏には『大佑 二十三歳』と書かれていた。


「……どういうことですか、これ。これじゃ、百合子さんは全然違う人の背中を、自分の弟の背中だって言って描き続けたみたいじゃないですか」


「みたい、じゃなくて、そうなの。高坂百合子には弟なんかいないのよ。十歳の時に亡くなっているんだから」


 さゆみは大基の絵を撫でている。愛おしそうに、悲しそうに。その姿を見て、さゆみのことを敵視し続けていた美和は混乱した。


「でも、百合子さんは、弟の背中をずっと描き続けてるって言って……。そうだ、弟さんは加藤田さゆみからストーカーされてるって。そうだ、あなた、犯罪者じゃない!」


 美和はあらためて刑事の顔を見たが、刑事はのんびりとヒゲをいじっている。


「……なんで、捕まえないんですか?」


 恐る恐る、美和は刑事に尋ねた。答えはわかっているような気がした。


「高坂百合子には弟なんかいないからだ。戸籍は調べてある。確かに十歳の時に死亡していたよ」


「百合子さんが、嘘を吐いたの?」


 美和はさゆみと、側に立っている斗真にかわるがわる視線を移す。さゆみは言い含めるように静かな声で美和に語った。


「嘘をついている自覚があるかどうかは、わからない。高坂百合子は、本当に自分の弟だと思い込んでいるのかもしれない。そうじゃなければ、絵の裏に、名前なんか描いておかないんじゃないかな。自分が罪を犯した証拠になるのに」


「罪? 罪って、百合子さんが何をしたって言うんですか? 何か犯罪にでも手を染めたって言うんですか?」


「そうよ。誘拐、監禁。何件も。この絵が証拠よ。間違いないわ。この絵のモデルになった男たちはみんな行方不明なの。高坂百合子のモデルになったのを最後に、消えてしまったの」


 美和が目を丸くする。


「まさか、そんなこと! 百合子さんは、そんなことしません!」


「あなたは、高坂小百合の何を知っているの? 高坂小百合がどんな人間か、本当に、知っているの?」


 問われて、美和は目を伏せた。美和が知っている百合子は、美しく、上品で、儚げで、優しい。そんな印象だけだ。

 それは、本当だろうか? 百合子は刑事の前で、船木大吾のことを自分の弟だと言ったではないか。優し気に、上品に、嘘を吐いたではないか。


「……お兄ちゃんは、大丈夫なんでしょうか」


 そっと顔を上げて美和が尋ねたが、誰も答えを返すことが出来なかった。




 画廊の扉に鍵をかけて、美和も伴って高坂百合子の自宅に向かった。さゆみと斗真に、インターホンのカメラに写り込まないように下がれと指示を出して、刑事がインターホンのボタンを押す。


『はい』


 しばらく待って聞こえた声は、男性のものだった。美和があわててインターホンに飛びつく。


「お兄ちゃん! 無事なの!?」


『あっれ、美和じゃん。なんだよ、無事って。何かあったのか?』


「百合子さんは、百合子さんは!?」


『えー、百合子さん? えへへへへ』


「なに笑ってるのよう!」


 涙目の美和の必死な様子にも大吾は気づかないのかヘラヘラと笑い続ける。


『百合子さんはあ、俺のためにお茶を淹れてくれてますう』


「今のうちよ、すぐに出てきて!」


『なんだよ、何の用?』


「お兄ちゃんが危ないかもしれないの」


 大吾の返事はない。美和はインターホンのカメラのあたりをバシバシと叩く。


「聞こえてる!? ねえ!」


『美和さん、どうしたのかしら』


 百合子の声がインターホンから聞こえた。大吾が今どうしているのか、百合子がわざと隠したように感じられて、百合子を信頼していいのか、ますますわからなくなってしまって、美和は困惑した。


「百合子さん。どうして、兄の絵を描くんですか?」


『どうしてって? 私はずっと大ちゃんの絵を描いてきたもの』


 美和は百合子が言っていることが理解できないのに、何か恐怖によく似た強い違和感を覚えた。


「百合子さん、百合子さんが描いてきたのは、弟の背中の絵、ですよね」


『ええ、そうよ。その通りよ』


「お兄ちゃんは、船木大吾は、百合子さんの弟じゃないのに、なんでモデルにするんですか?」


『美和さん、せっかくなんだけれど、時間がないの。失礼するわね』


「百合子さん!?」


 インターホンは切られてしまって、呼んでも返事はない。ボタンを押してもチャイム音もしない。


「電源を切ったわね」


 冷静なさゆみの声に、美和の困惑はますます深まった。


「どうして、百合子さんは話をしてくれないんですか」


 美和の質問に答えるものはいなかった。

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