背中 にじゅうに

 男の人はお兄ちゃんを黙って見つめている。百合子さんを見ていた時は睨んでいるみたいな視線だったのに、お兄ちゃんに対しては、それがない。


「ちょっと、どいてくれないか」


 表のドアから人が入ってきた。立ちふさがっていた男が驚いて振り返る。

あの日、訪ねて来た刑事さんだ! よかった、これでもう安心だ。


 男は刑事さんにも道を譲ろうとはしない。刑事さんは男の頭からつま先までジロリと眺めた。それから、尻ポケットから警察手帳を出して男に見せ、ポンと肩を叩いて軽く押した。

 男は大人しく道を譲った。


「高坂百合子さんだね」


 刑事さんは男を放っておいて百合子さんに話しかけた。


「そっちの男は誰だい」


 顎でお兄ちゃんのことを指し示す。刑事さんは、なんで不審者を尋問してくれないの? 関係者確認の方が先なの? そういうもの? 何もわからないから見ていることしか出来ない。


「私の弟です」


 百合子さんはやっぱり、お兄ちゃんのことを『弟』だと言う。そりゃ、弟の代わりにモデルになるわけだから、そうと言えないことはないんだけど……。


「あんたの弟は死んだだろ」


 刑事の言葉に、私は目を丸くした。百合子さんは不思議そうな表情で首をかしげた。


「弟なら、ここにいます」


 百合子さんがお兄ちゃんを見上げてニコリと笑いかける。お兄ちゃんは、さも嬉しそうにヤニさがる。きっと、何も考えていないに違いない。


「おい、弟。お前、名前はなんて言うんだ」


「大吾ですが?」


 お兄ちゃんの答えに、今度は刑事さんが目を丸くする。


「冗談なら悪趣味だぞ」


「冗談って、何がですか?」


 刑事さんが何を言っているのかわからなくて、お兄ちゃんは頬っぺたを、ポリポリと掻いている。


「大吾、苗字は」


「高坂大吾です」


 お兄ちゃんの代わりに百合子さんが答えた。刑事さんは、ちらりと百合子さんに目をやったけれど、すぐにお兄ちゃんに視線を戻した。


「あんたに聞いてるんだよ、弟。氏名は」


「船木大吾ですけど」


「身分証は」


「今は何も持ってません」


「そうか。でも、とりあえず、あんたは高坂百合子の弟じゃないんだな」


 お兄ちゃんは何と答えればいいのか悩んでいるようで、黙ってしまった。どうしよう、何が起きているんだろう。刑事さんは何が言いたいんだろう。謎の男はなんで微笑してるんだろう。百合子さんは、なんで不思議そうにお兄ちゃんを見上げているんだろう。


「もう一度聞くぞ。あんた、高坂百合子の弟じゃない……」


「弟です!」


 叫んだ私に視線が集中した。刑事の、お兄ちゃんの、あの男の、驚いた顔。それから、百合子さんのとっても嬉しそうな顔。そんな顔を見たら、もうこの嘘を貫き通さなければという使命感が湧いて来た。


「その人は、百合子さんの弟です」


 刑事さんは私の胸の名札に視線を動かした。思わず手で隠す。


「こいつは、船木大吾って名乗ったがな」


「ま、間違えたんですよ、きっと! さっき、私が名乗ったばかりだから、つい、そんな名前を口に出しちゃったんですよ!」


「はい、間違えました」


 とぼけた声をあげたお兄ちゃんを、刑事さんがギロリと睨む。もう、お兄ちゃんてば、こんな時くらい真面目にしてよ!


「どこに自分の苗字を間違って名乗る人間がいるんだよ」


 刑事さんはお兄ちゃんに一歩近づいた。放っておいたら胸倉でも掴みそうな勢いだ。


「ここに、一人、いまして」


「何だって!? 聞こえなかったなあ!」


 刑事さんが低い、大きな声でお兄ちゃんに迫ったけれど、お兄ちゃんは間抜けな顔で驚いてみせただけだ。


「ここに、一人、いるんですよ。自分の苗字を間違えるやつが」


 チッと舌打ちが聞こえた。刑事さんだ。こんなにガラが悪い人には見えなかったのに。


「もう一度、聞こうか。お前の氏名はなんていうんだ」


「高坂大吾です」


「間違いないんだな」


「間違いありません」


 刑事さんはしばらく黙ってお兄ちゃんを睨みつけていたけれど、フイっと顔を背けると、ハーーーーーっと大きく長く深いため息を吐いた。


「分かったよ。ほら、出て行くんだろ。どーぞ」


 百合子さんとお兄ちゃんが一緒に外に出て行く。謎の男が二人を追いかけて外に飛び出す。刑事さんが後を追う。


 画廊には、何が起きたか今でもわからないままの、私一人が取り残された。

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