背中 にじゅういち

 表のドアが開いたチャイム音でバックヤードから出てみると、なぜかスーツを着込んだお兄ちゃんが、ヘラヘラ笑って立っていた。


「いま、昼休みなんだけど」


 軽く睨んでやったけれど、まーったく気にも留めない。


「百合子さんと待ち合わせなんだあ。いいだろう。うらやましいだろう」


 ニヤけ顔で嬉しそうにされると、何だか妙に腹が立つ。


「いつの間に百合子さんと約束なんかしたのよ」


「昨日」


「えー。それなら昨日、言っておいてよ。お茶の準備も何もしてないよ」


「大丈夫、大丈夫。待ち合わせだけで、すぐに出かけるから」


「出かけるって、どこに?」


「百合子さんの家」


 驚いて目玉が飛び出すかと思った。


「なんで!?」


「もちろん、モデルをしに行くんだよ。ほら、見てくれ、この一張羅を。百合子さんのモデルなんて光栄な仕事なんだから、正装しなくちゃなあ」


「正装って。着なれてないんだから、七五三にしか見えないよ」


 本当に、似合っていない。ブラックスーツに白いシャツ、水色のネクタイ、それなのに靴はずっと履きっぱなしのスニーカー。


「なんでスニーカーなの?」


「靴まで手が回らなかったんだよ」


「手? もしかして、スーツ一式を買ったの?」


「おう。フレッシャーズ応援セールをやってたから、安く買えたぞ」


「へえ。いくらくらい?」


「十万」


 それって全然安くない。きっと見栄を張ってお店で一番いいものを買ったんだ。


「あれ、十万って、もしかして……」


「利率は0パーセントでよろしく」


「私のお金!? もう、信じられない!」


 一発、叩いてやろうと手を上げかけた時、表のドアが開いた。


「百合子さん!」


 お兄ちゃんが、ものすごい勢いでドアに向かって走る。もしも犬だったなら、尻尾が降り切れそうなぐらいブンブン振っていると思う。


「こんにちは、大ちゃん。ごめんなさいね、突然に」


「何をおっしゃるんですか! この船木大吾、百合子さんのためなら、いつどこへでも駆け付けます!」


 芝居がかったお兄ちゃんの喋り方が恥ずかしくて直視できない。百合子さんに、こんなのが兄だと知られたくなかったなあ。

 

「じゃあ、行きましょうか」


 百合子さんがお兄ちゃんの背中にそっと手を触れた。お兄ちゃんがビクリと身を揺らした。まるで感電したみたいに。

 そんなことにはお構いなしで、百合子さんはお兄ちゃんの背中を押して外へ出て行く。私がここにいることなんて、気付いていないみたい。視線すら、こちらへ向けてはくれなかった。


 ちょうどその時、ドアが開いてお客が入ってきた。百合子さんとお兄ちゃんは脇へ避けた。けれど、入ってきた男性のお客は、ドアをふさぐように立ったままで、百合子さんをじっと見つめていた。

 あまりの美しさに目が離せないんだろうかと思ったけれど、なんだか雰囲気がおかしい。百合子さんを睨みつけているようにも見える。


 お兄ちゃんが百合子さんとお客の間に体を割り込ませた。お客はお兄ちゃんの顔もじっと見ている。なんだろう、なんだかソワソワする。


「……いらっしゃいませ」


 いつまでも動かない三人に声をかけた。ドアのところで通せんぼするように立っているお客がチラリと私のことを見たけれど、それだけだった。

 私から視線を外すと、お客は、お兄ちゃんの肩越しに百合子さんに話しかけた。


「高坂百合子さんですね」


 百合子さんは落ち着いた様子を崩すことなく答えた。


「はい。あなたは?」


「ファンです。ご本人にお会いできて光栄です」


 お客はちっとも嬉しそうじゃなく、訥々と喋る。お兄ちゃんが怖い顔をして口を開きかけたけれど、それより早く百合子さんが返事をした。


「ファンだなんて、光栄だわ。橋田坂下の絵がお好きなの?」


 お客が答えるまで、少しの間が開いた。


「いいえ、あなたの絵、『背中』のファンです」


 私は驚いて百合子さんを見る。私がここに就職してから今まで、こんな男性が画廊に来たことはない。初めて来店したはずだ。それなのに、どこで百合子さんの絵を見たのだろう。


「まあ。ありがとうございます。よろしかったら、ゆっくりご覧になっていってくださいね」


「少し、お話しをうかがいたいのですが」


 男性は相変わらず通せんぼしたままで、除ける気は全然ないようだ。お兄ちゃんは百合子さんを背中に隠すようにお客の前に立ちふさがった。


「すみませんが、急いでいますので」


 お兄ちゃんが言う。まるで百合子さんの付き人か何かのように真面目くさっている。いつもなら笑っちゃうところだけれど、今日は背中を押したい気持ちになる。そのまま百合子さんを隠していて欲しい。

この男性、なにか変だ。お客としてやって来たんじゃない。


「あなたは、彼をどうするつもりですか」


 彼。と言って男性は目の前のお兄ちゃんのことを指し示した。百合子さんがお兄ちゃんをどうするかって、何のこと?

百合子さんはお兄ちゃんの腕に触って、その顔を見上げた。


「大丈夫。心配しないで」


 それはお姉が弟をあやしているような親密さがあって、なんだか違和感を感じる。

『背中』の二十歳と二十三歳を並べて見た時と同じような違和感だ。


「高坂さん。答えてください」


「これから新作の絵を描くの。彼はそのモデルよ」


 男性はキツイ目をして百合子さんを見ている。ほとんど睨みつけていると言ってもよさそうな目だ。百合子さんはニッコリと笑っているけれど、不穏な空気が流れている。


「彼は、あなたの弟ですか」


 男性が低い声で尋ねた。百合子さんは嬉しそうに目を細める。


「ええ、そうよ」


 お兄ちゃんが驚いて百合子さんに視線を向けた。百合子さんはお兄ちゃんを見上げて優しく笑う。


「じゃ、大ちゃん。行きましょうか」


 百合子さんが歩きだそうとしたけれど、男性は、今度は本当に腕を広げてドアの前に立ちふさがった。どうしよう、この人、変だ。危険かもしれない。

警察を呼んだ方がいいだろうか。でも、大げさなことをして、かえって刺激しちゃったら……。


「あなたは、大ちゃんという男性なら、すべて弟だと言うのでしょうね」


 百合子さんは首をかしげた。


「おっしゃっていることが、よくわからないのですけれど」


「私の名前は、大基と言います」


 百合子さんの表情は変わらないのに、雰囲気がガラリと変わった。なにか、オーラみたいなものが見えるような気がした。

怒ってる? それとも、おびえてる?

 ああ、やっぱり警察に電話した方がいいのかな……。

 そう思って、思い出した。いつだったか訪ねてきた刑事さんに電話してみよう! 110番するかは、その後だ!


 そうっと受付のデスクに向かって歩いていく。男性はこちらにはまったく注意を向けていない。


「あなた、加藤田さゆみさんのお知り合いなのね」


「そうです」


 引き出しからメモ紙を引っ張り出して、急いでバックヤードに向かう。加藤田さゆみの知り合い! ちょっと、やっぱり、まともな人じゃないんじゃないの!?

 音を立てないように扉を閉めて、カバンからスマホを取り出す。いやだ、私、震えてる。

震える指を叱りつけて電話をかけると、ワンコールで繋がった。


『はい』


「あの、刑事さん、北条さんですか?」


『あんたは?』


「橋田画廊の受付です。大変なんです、聞いてください!」


『なにがあった』


「加藤田さゆみの知り合いの男が来ていて、百合子さんに、高坂百合子さんに絡んでるんです」


『写真の男か?』


「いいえ、違います。違うけど、どうしたらいいのか、もう、わからなくて……」


『今、近くにいるから、すぐに向かう。相手を刺激しないように。帰るようなら黙って帰らせろ』


「はい」


 電話はそれだけで切れた。スマホを握りしめて、ドアを薄く開いて覗いてみた。男性はまだ百合子さんと話をしている。とりあえず、百合子さんが無事でホッとした。

 でも、見ているだけじゃダメだ。何かあった時に百合子さんを守らないと。

 私はまた足音を忍ばせてバックヤードから出て行った。

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