背中 にじゅう
さゆみが一人で行っていた尾行に、斗真も手を貸すことになった。そのおかげで、百合子の家のすぐそばに張り付くことが出来るようになったわけだが、男性が見張っているとなると、通報される危険性が増す。基本的には、百合子が日常的に利用している駅で待ち伏せすることにした。
百合子はなぜか外出にタクシーを使わない。尾行する身としてはありがたい。
斗真が百合子を見た第一印象は、美人だけれど地味な女性だというものだった。駅で待ち伏せして、外出から帰ってきた百合子の後を尾けたのだが、彼女の美貌に振り返るような人はいない。橋田坂下の絵を見ていたので、目を瞠るような美女が現れると想定していたものだから、危うく見逃すところだった。
百合子は足音など全くたてていないのではないかと思うほどに静かに歩く。お屋敷町の静謐な空気に溶け込むように。その歩き方もどこか、わざと気配を消しているように不自然な、生気を感じさせないものだった。
本当にこの女は生きているのだろうか?
斗真は尾行している間、何度も首をひねるのだった。
百合子の尾行を斗真に任せたさゆみは、橋田画廊が見える位置にあるインターネット喫茶に入り浸ることになった。
会社は辞める。斗真には反対されたが、さゆみは頑として聞き入れなかった。なぜか、気持ちがざわつくのだ。急がないと手遅れになるよ、と何ものかが直接、頭の中に語りかけているように感じるのだ。
それこそ、百合子に毒されてしまって、まっとうな精神状態ではなくなっているのかもしれないと自分でも思う。だが、どうしようもなかった。自分の感覚を見ないふりをすることは出来なかった。
インターネット喫茶のオープンスペース、一面ガラス張りの明るい窓際に設置された硬いソファに収まって、画廊を見下ろす。午前八時から午後八時まで、十二時間居座るさゆみを、いぶかしみ、寄ってくる人はいなかった。何もせず窓の外だけを眺める怪しい人に、誰も関わり合いになりたくないだけなのかもしれないが。
画廊の営業は午前十時から午後六時まで。午前九時に美和がやって来て店を開ける。一日見ていても客は来ない。午後六時に美和が画廊のショーウインドウの明かりを消し、六時半に鍵を閉めて帰っていく。
三日間、ずっと見ていても、美和以外に画廊を訪れる者は誰もいなかった。
四日目、昼十二時半にスーツ姿の男性が画廊に入って行った。さゆみは思わず立ち上った。
『背中』だ。彼が次の『背中』だ、間違いない。あわてて店から駆け出した。
インターネット喫茶が入っているビルのエントランスにたどりついた時、画廊に入って行く百合子の背中が見えた。
接近禁止命令、そんな言葉は頭に浮かばなかった。そのまま駆け出して百合子の後を追おうとしたのだが、腕を掴まれて足が止まった。
「加藤田、何してるんだ!」
振り返ると、斗真が焦り顔で、さゆみの腕を掴んでいた。
「百合子が『背中』を見つけたんです! 守らないと、消えてしまう!」
「落ち着け。今、お前が出て行って何かすれば騒ぎになるだけだ。警察を呼ばれたら、そこで終わりだろう」
「でも……!」
「俺が行く」
さゆみの肩を押して、建物の影に隠すようにしてから、斗真は画廊に向かった。その背中を見つめながら、さゆみは腹の底からじわじわと不安のような、恐れのような感覚が湧いてくるのを感じていた。
それから二十分、待った。時間がかかっている。さゆみは両手をぎゅっと握りしめて橋田画廊を見つめていた。
もし、百合子が「大ちゃん」以外の男にも興味をもったら、斗真も消えてしまうだろうか。それよりも、現実的な危険にさらされているのではないだろうか。
黙って待っていることが出来なくなって、さゆみは駆け出そうとした。
「あんたか」
後ろからのんびりした声をかけられて振り返ると、刑事が立っていた。
「画廊に居座ってる男ってのは、あんたの知り合いなんだな」
「居座ってる? 彼は無事なの?」
「多分な。見てきてやるから、あんたはここを動くんじゃない。余計な仕事を増やさんでくれよ」
そう言いおいて刑事はぶらりと画廊に入って行った。
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