背中 じゅうく
「本当にもう。お兄ちゃんてば、ずうずうしい」
画廊の営業を終えて、お兄ちゃんと一緒に家に帰った。私の部屋に落ち着いたお兄ちゃんは、荷物を解いてはいるのだけれど、周りのことは何も見えていないようで、出した荷物を何度もバックパックに戻したり、出したり、戻したり、出したり、意味のない行為を続けていた。
「百合子さんのモデルだなんて。そんな大役が務まるわけないじゃない」
私はぶつぶつ文句を言いながらも、夕食の仕度をすすめる手は止めない。
「なあ、美和。これは運命だと思うんだよ」
「これはって、なにが?」
「俺の名前が『大ちゃん』だったことだよ。それに、俺の背中が百合子様の弟君の背中に似ているなんて」
切っていたニンジンを握ったまま、お兄ちゃんの背後に回った。セーターに毛玉がたくさんついている。そのセーターを着た背中をじっくり観察して首をひねる。
「似てるかなあ?」
お兄ちゃんはくるりと振り返って肩をそびやかす。
「もちろん、似てるに決まってるだろ。巨匠が認めたんだからな」
「巨匠って。百合子さんのこと、そういう言い方するのやめて。なんだか安っぽい」
むっと眉をひそめた私の顔を面白がって、お兄ちゃんは同じ顔をしてみせた。兄妹だけあって、似ているところに腹が立つ。ますますむくれてキッチンに戻った。
「美和は百合子さんの弟君に会ったことあるのか」
料理の手を止めずに冷たく答えてやる。
「ないよ」
「じゃあ、似てるかどうかなんて、お前には判断つかないじゃないか」
「直接は見たことないけど、毎日『背中』を見てるもん」
「あの絵ねえ。あれ、本当に似てるのか?」
思わずお兄ちゃんを横目で睨む。
「なによ、さっきは百合子さんのことを、巨匠だ
なんて言ってたくせに」
「それはそうなんだけど、すごくいい絵だと思うんだよ、生きているみたいで。けどさ、あの背中の絵、全部同じ人間とは思えないんだよな」
「なに、それ。宇宙人の背中だって言うの?」
お兄ちゃんはぼりぼりと頭を掻く。床に視線を落として喋ろうか喋るまいか、しばらく悩んでから話し出した。
「全部さ、別人の背中じゃないか?」
私の口が思わずぽかんと開く。
「何言ってるの。バッカじゃないの」
「バッカなんかじゃ、ないって。お前、毎日見ていて思わないのか、何か違和感を持たんのか」
私はお兄ちゃんの顔をじっと見つめた。お兄ちゃんはふざけてばかりいるけれど、昔から勘がするどい。
と言っても、神経衰弱やババ抜きなど、トランプゲームが強いとか、手品のタネを当てるとか、その程度なんだけれど、その勝率がものすごいことを私はよく知っている。なんとなく、気になってしまう。
それに、私自身も二十歳の背中と二十三歳の背中との間に違和感を覚えているのも確かだ。
「でも、じゃあ、モデルはだれだって言うの?」
ぽつりと、自分自身に問いかけてみる。私の言葉を聞きつけたお兄ちゃんは腕を組んで首をひねる。
「その時、その時の、彼氏とか」
「なにそれ。それじゃ、百合子さんは似たような背中ばっかり好きになってるみたいじゃない」
「だよな。やった!」
「何が、やったなの」
「次のモデルは俺だろう? 百合子さんは俺の背中に惚れたんだよ」
「バッカじゃないの」
冷たく言い放って料理に戻ったけれど、何か腑に落ちず、考え込んだ。
百合子さんは何故、弟の代わりにお兄ちゃんの背中を描く、なんていうことを考えたのだろうか。弟がストーカー対策で姿を隠しているとしても、戻ってくるのを待てばいいだけのことなのに。急いだ注文があるわけでもないんだから。
現に、『背中 二十三歳』だって、『背中 二十歳』から五年後に発表した絵なのだ。制作に何年かけてもいいはずだ。
「本当に、百合子さんはお兄ちゃんの背中なんか描いて、どうするんだろう……」
ぽつりと呟いたセリフは、有頂天になっているお兄ちゃんの耳には届かなかった。
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