背中 じゅうはち

「お兄ちゃん!? どうしたの!」


 昼休み、画廊のドアが開いたチャイム音で、食べかけの弁当を置いて表に出た私を見て、お兄ちゃんが両手を上げて、ひらひらと振った。


「突撃、職場ほうもーん」


「もう! やめてよ、そういうの! お客様の迷惑になるでしょ!」


 大きなバックパックを肩にかけたお兄ちゃんは、そんなに広くもない画廊の中を、しつこいほどにキョロキョロと見渡した。


「おお、団体様がいらっしゃってますね」


「そういう冗談もやめて。お父さんそっくり」


 本当に、お兄ちゃんは年々、お父さんに似てくる。そのうち、お腹もでっぷりと出てくるに違いない。


「そうだ、父さんから、就職祝いを預かって来たぞ」


 お兄ちゃんはバックパックを床に置くと、その場で開けて中身を引っかき回し始めた。あわてて、お兄ちゃんの腕を引っ張る。


「ちょっと! 本当に邪魔になるから、やめてってば!」


 無理やり立ち上がらせると、お兄ちゃんをバックヤードに引っ張り込んだ。


「おお。関係者以外立ち入り禁止っぽいところ」


「その通り、関係者以外立ち入り禁止です」


「俺、無関係者だけど、いいの?」


「ダメだけど! 仕方ないじゃない」


 私に睨まれてもお兄ちゃんは飄々としている、腹立つ。改めてバックパックを漁って、白い封筒を引っ張り出した。


「ほい、これ」


「なによ、もう。くしゃくしゃじゃないの」


 ぶつぶつ文句をいいながら封筒を受け取った。表書きは『船木美和殿』。中には便箋が二枚入っていた。一枚はお父さんから。もう一枚はお母さんからの手紙だった。


「なんで、わざわざ手紙なんか……」


「お前が、すぐに電話切るからだろ。用件くらいちゃんと聞いてから切れよ」


「聞いてるわよ」


 ざっと目を通した手紙には、就職祝い金、十万円を同封したとある。封筒を覗き込んだけれど、何も入っていない。逆さにして振ってみたけれど、一円たりとも出て来なかった。


「あ、貸付利率は0パーセントでよろしく」


「はあ?」


「十万、来年には返すから」


「盗ったの!? 私のお金!」


「人聞き悪いなあ。借りただけだって」


「何に使ったの! そもそも、どうやって返すのよ! お兄ちゃん、無職じゃないの!」


「これから働くんだよ」


「何をして!」


「起業だよ。だから資金がいるんだ。なあ、良かったら、二十万円くらい投資しないか」


「するわけないでしょ。バッカじゃないの。投資じゃなくて捨て金になるだけだって、わかってるもん」


 お兄ちゃんを無視してお弁当に戻ろうと箸を取ったところで、来客を知らせるチャイム音が鳴った。


「お兄ちゃん、絶対出て来ないでよ!」


 お兄ちゃんの胸を押して壁際に下がらせて、一睨みしてから表に出て行った。


「百合子さん! いらっしゃいませ!」


 思わず声が大きくなってしまう。本当なら飛びつきたいくらいだ。百合子さんに会えるなんて、今日は本当に、なんてラッキーデイだ。大吉だ。

百合子さんは優しく微笑んで、手にした紙袋を差し出した。


「これ、お約束していた橋田坂下の画集よ」


「わざわざすみません。私が取りに伺うべきなのに」


「いいのよ。ついでがあったから。ところで、あちらの方は、どなた?」


 百合子さんの視線を追って振り返ると、バックヤードに続くドアが半分開いていて、その隙間からお兄ちゃんがこちらを覗いていて、間抜けな顔でポケッと口を開けて百合子さんに見惚れていた。


「お兄ちゃん! 出て来ないでっていったでしょ!」


 急いでドアを閉めるべく突進していったけれど、お兄ちゃんは私が押し込める前に、するりと表に出てきた。

 百合子さんの元に駆け寄って、片膝をついて腕を差し伸べる。まるで中世ヨーロッパの騎士が貴婦人に忠誠を誓うような姿だけれど、だらけきったお兄ちゃんには当然、似合うようなしぐさではなく、なんとも情けない。

恥ずかしくて顔から火が出そう。けれど、百合子さんは微笑んだまま動じることもない。


「美しい貴女、お名前をうかがっても?」


 芝居がかったお兄ちゃんの言葉に、百合子さんは、くすくすと笑いだした。お兄ちゃんの腕を取って立たせようとするけれど、足が床に接着されたように微動だにしない。力いっぱい引っ張ってもびくともしない。


「もう! お兄ちゃん、やめてよ、恥ずかしい!」


 百合子さんはいかにも楽しそうに笑う。


「いいじゃない、美和さん。愉快なお兄様だわ」


 百合子さんは差し出された、お兄ちゃんの手を取る。


「私は、高坂百合子と申します」


 貴婦人然として軽く膝を曲げたお辞儀をしてみせる百合子さんに、お兄ちゃんは見惚れて、鼻の下をデレーっと伸ばして、言葉も出ない。


「美和さん、お兄さんのお名前は、なんておっしゃるの?」


 お兄ちゃんに直接聞くのではなく、わざわざ私に聞いたのは、貴婦人ごっこの続きだったのかもしれない、百合子さんに呆れられなくて良かった。

私が紹介するより早く、お兄ちゃんは百合子さんの足許に詰め寄っていく。


「船木大吾です! 年は二十五、未来の大社長です!」


「まあ」


 百合子さんは笑った。その場にいるものを虜にせずにはおれない、花のような笑顔で。


「あなたも大ちゃんなのね、すてき。よろしくね、大ちゃん」


 百合子さんは細く白い手を伸ばして、お兄ちゃんの頬に触れた。とたんに、お兄ちゃんのデレっとした表情が変わった。百合子さんの瞳以外のものは、きっと見えていない。

 一瞬で、百合子さんの所有物になってしまったかのようだった。

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