背中 じゅうに
新しい『背中』の絵は無事に画廊に運びこまれた。画廊で待っていたオーナーが大きくドアを開けて待っていた。オーナーが働くところを初めて見た。まあ、ドアを開けただけだけれど。
業者さんは今かかっている絵の隣に、新しい絵をかけるところまで、やってくれた。何もかもお任せでいいものだとは知らなかった。てっきり運ぶところまでだと思っていた。
作業が終わるまでに時間があったので、業者さんたちのためにお茶を淹れた。椅子もテーブルもないから、立って飲むしかないのだけれど。それでも嬉しそうに飲んでくれたのは、こちらとしても嬉しい。帰っていく業者さんに挨拶してドアを閉めたところで、私の仕事は一段落した。
「美和君、百合子君と話があるから、奥の部屋を使うよ。人が来ても通さないでくれ」
そう言ってオーナーと百合子さんはバックヤードに入って行った。オーナーは見たことがないほど緊張した面持ちだった。なんの話なんだろう。気にはなったが、まさか立ち聞きするわけにもいかない。けど、知りたい。
気持ちを落ち着けようと、新しく入った『背中』の絵を見上げる。正式な名前は『背中 二十三歳』だ。今までは一番大きかったのが『背中 二十歳』だから、それから三歳年をとったわけだ。
弟さんは、いったい何をしている人なんだろう。二十三歳なら就職して働いているだろうか。それともまだ学生か、もしかして何もしていなかったりして。百合子さんほどの財産があれば、弟くらい一生、面倒をみられるだろうし。
いや、でもそれはあまりにも現実的じゃないな。姉弟、二人で一生一緒なんて。
二十三歳の背中を見ていると、ふと違和感を抱いた。なんだろう。なんだか、この背中が全然知らない人みたいな気がした。
もちろん、百合子さんの弟さんとは会ったことがないのだから、知らない人だ。けれど、毎日、二十歳の背中を見ていて、すっかり見慣れたものだから、よく知っているような気がしていたのだ。
百合子さんの絵がすごく写実的で、生きているみたいに見えるから、本当の人間の背中を見ているような感じがするのだろう。
背中だけでなく、二十歳のこの人のすべてが、この絵の中にあるような。そんな感じを受けていたのだ。
これが才能っていうものなのかな。
ドアが開いて、人が入ってきた。あわててお客を出迎えようと振り返ると、入って来たのは加藤田さゆみだった。
さゆみはまっすぐこちらに向かってくる。何かされるのではないかと身をこわばらせたが、さゆみは『背中 二十三歳』の前に立って、じっと絵を見つめた。
ほっと息を吐いたが、安心は出来ない。きっと百合子さんの弟さんを探して、ここに来たのだ。もしかしたら百合子さんの家からずっと尾行してきたのかもしれない。そうでなければ、どうしてこんなにタイミングよく、ここに来られるの?
新たに気が張り詰めた。けれど、さゆみは眉をひそめて、じっと絵を見上げつづけるだけで何も言わないし、何もしない。
そう言えば、以前来た時、二十歳の絵の前でも、そうとう長い時間を、じっと立ったまま過ごしていたっけ。
その時は懐かしいものを見ているような優しい、悲しそうな表情だったけれど、今日は違う。何か怒っているような感じだ。その怒りの矛先がこちらに向かないように、そっと受付の机に向かった。
「あなたは」
机にたどりつく前に、声をかけられた。
怖い、何を言われるのだろう。肩をすくめて振り返った。けれど、さゆみは、案外、優し気な雰囲気だった。
「あなたは、どこまで知っているの?」
「え?」
「橋田坂下の家から、高坂百合子と一緒に出て来たでしょう。何を知っているの?」
やっぱり、さゆみは尾行してきたんだ。恐怖が増す。なんとかごまかさなくては。ストーカーのことを知っていると言ったら、危ないかもしれない。
「何を、って、なんのことですか?」
精一杯、平静を装ったつもりだけど、もしかして声が震えていたかもしれない。それくらい、怖かった。尾行なんてする人が、ストーカーなんかする人が、普通の会話が出来るとは思えない。
「もし、何も知らないなら」
さゆみは言葉を切って、防犯カメラに目を向けた。
「高坂百合子から逃げた方がいいわ。この画廊にいない方がいい」
そう言い残して、さゆみは出て行った。
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