背中 じゅういち
「ごめんなさいね、無理にお願いしてしまって」
「とんでもないです! 光栄です!」
『背中』の搬出の日、訪れた百合子さんの家は驚くほど広かった。
庭は森みたいだし、建物はコンクリート打ちっぱなしでカッコいいし、何より、靴を脱がない家なのだ。映画の登場人物になったような気分だ。
驚きすぎて目が点になっていたんじゃないかと思う。私は、はしゃぎたくなるのをグッとこらえていた。
「業者さんが来るまで、お茶にしましょう」
百合子さんの後について行きながらキョロキョロと部屋の中を見渡してしまう。入り口を入ってすぐの部屋にはソファが一つ置いてあるだけで、広々とした部屋はガラーンとしている。扉は三つ、一つは出入口、というか、玄関扉。一つは真っ暗で何の部屋かわからない。もう一つの扉、百合子さんはそちらに向かった。
扉をくぐるとすぐ目の前に次の扉。廊下は左右に長く伸びているのだけれど、どちらも暗くて何があるかはわからない。この建物はどうして、こんなに暗いんだろうと思って、窓がないからだとハタと気づいた。そういえば、建物に入る時に窓は見なかった気がする。
「どうぞ、座って待っていて」
廊下から入った部屋はダイニングのようで、洋画に出てくるような十人は座れそうな長いテーブルがある。それなのにイスは三脚しかない。
部屋の奥の扉がキッチンに続いているようで、百合子さんはそちらへ入って行った。
言われた通りイスに腰を落ち着けて、部屋を見回す。真っ白な壁で、天井がものすごく高い。建物全体の天井高が高いのだけれど、座って見上げると、より高いように感じられる。広々している、というよりは寒々しいと思うほどに広い。
部屋の中は家具が少ない。部屋の角に白いチェストがあって、真っ白な花瓶に大きなユリの花が活けてある。白ばかりなのに寂しさはない。豪華で上品なイメージなのは、さすがの芸術家という感じがする。
これもまた真っ白な大型のキャビネットがあるのだけれど、中には何も入ってはいない。洋酒の瓶でも並んでいたら似合いそうな家具だけれど、百合子さんがお酒を飲んでいるところなんて想像できない。からっぽなのが、ちょうどいいのかもしれない。
「お待たせしました」
トレイを持って百合子さんが戻ってきた。大き目のティーポットとソーサーに乗ったカップが二つ。本当にどれも真っ白だ。
百合子さんが紅茶を淹れてカップを私の前に置いてくれた。
「すみません、お手伝いに来たのに、何もせずにお茶をいただいてしまって」
「いいのよ、気にしないで」
百合子さんは私の対面のイスに腰かけて、ニッコリと笑う。緊張がほぐれていくような優しい笑顔だ。
「冷めないうちに、どうぞ」
うながされて紅茶を一口飲む。なんだか花のような甘い香りが感じられた。
「じつはね、来てもらったのは、絵の搬出のためじゃないの」
「え?」
紅茶から顔を上げると、百合子さんは真剣な表情になっていた。
「聞きたいことがあって。画廊に来るお客様のことなんだけれど」
「あ、はい。どういった……?」
「オーナーから何も聞いていないかしら。特別なお客様のこと」
上得意のお客がいるとか、そういうことだろうか。それとも、他の話だろうか。ピンとこないまま、首をかしげた。
「たとえば、画廊に若い女性が様子を見に来たりとか」
「あ!」
「なにかあったの?」
「あ、はい。以前、女性のお客様がいらして。その話をオーナーにしたら、また来たら引き留めてくれって。確か、名前も聞いて……。なにか珍しい名前……、カトウダ?」
「加藤田さゆみ?」
「そうです!」
百合子さんは軽く眉をひそめてため息を吐いた。
「そう。さゆみさんは、まだあきらめていなかったのね」
「まだ、っていうのは?」
ちらりと目を上げて、百合子さんは私の顔をうかがい見た。面接官みたいに、じっと、観察しているみたいに。
「ここだけの話。人には話さないでくれる?」
「はい」
頬に手を当てて何かを考えてから、百合子さんは口を開いた。
「加藤田さゆみさんは、私の弟を追い回しているの」
「それって、ストーカーとか……?」
「ええ。さゆみさんは弟の恋人だったの。でも、弟からお別れを言ったらしいのだけれど、さゆみさんは聞き入れてくれなくて。だんだん行動がエスカレートして。身の危険を感じて、弟は姿を隠しているの」
「警察に相談はしなかったんですか」
「したわ。でも、女性から男性への迷惑行為には真面目に動いてくれないというか……。さゆみさんは相変わらずの行動を続けていて」
驚いた。画廊にやって来た加藤田さゆみは、とてもストーカーなんかしそうにない、普通の女性にしか見えなかった。
「だから、彼女が画廊にやって来ても、何も話さないで欲しいの。このことは誰にも秘密にして。お願いできるかしら?」
百合子さんは眉を寄せて心配そうに私を見る。うなずこうとして、ふと止まった。
「あの、オーナーからは加藤田さゆみが来たら連絡するように言われてるんですけど……」
「橋田さんは、きっと私を助けようとしてくれてるんだわ。でも、面倒をかけたくないし、弟がどうしているのか説明するのは避けたいの。弟がこの家にいないっていうことを知っている人は少ないほどいいでしょう」
「わかりました。絶対に誰にも何も言いません。オーナーにも」
百合子さんは、とても嬉しそうに、ふわあっと花が咲くみたいに笑った。
お茶を飲みながら色々話をした。主に、私の氏素性とか、故事来歴とか、そういうこと。本当に面接を受けているみたいな質問だったけれど、百合子さんに聞かれると不思議と、なんでも、するすると答えてしまう。
百合子さんの会話術の秘訣は、その美しさのせいかもしれない。
容姿だけではなくて、声も、姿勢も、しぐさも、何もかもが美しいのだ。きっと心の中も真っ白で美しいに違いない。
いつまでも話し続けていたかった。私のことを全部知って欲しい。こんな気持ちは初めてだ。まるで最良の飼い主に出会った犬のような気持ち。お腹をさらけだして、なんでも言うことをきいてしまいそう。
絵を搬出するために業者がやって来たのが残念でならない。もっと遅い時間に来てくれれば良かったのにと憎らしいくらいに思った。
百合子さんが業者の人、二人を案内していく後についていく。ソファのある部屋の奥、真っ暗な部屋に灯りがともる。真昼のように真っ白な光だ。まぶしい。
部屋の真ん中に、大きなキャンバスがあった。画廊にある最大の絵と同じ号数みたいだ。やはり、男性の背中の絵。それはそうか、『背中』っていうタイトルなんだもの。今までの作品と同じ、弟さんの背中なんだから。
黄色のシャツを着た細い背中。やけに首が長い。まるで首に縄をかけて引っ張ったみたいな。姿勢よく座っている。
業者さんはテキパキと梱包していく。絵の梱包なんて始めて見た。用意されていた額に嵌め込んで、額の四隅に緩衝材を止めつける。プチプチの梱包材でくるんで、段ボール製の箱に入れて、またプチプチでくるむ。
百合子さんは真剣な表情で、じっと作業を見つめている。大切な絵なんだから、どういう風に扱われるか心配なんだろう。
ふと、百合子さんの表情が変わった。笑ってる?
なぜだか、ぞっとした。この世のものとは思えないほど美しかったのだ。まるで美しさで獲物をとらえる妖花のようで。
見てはいけないものを見たような気がして、私はあわてて目を伏せた。
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