背中 じゅう

「オーナーは、いらっしゃる?」


 上品で甘い声だった。いつまでも聞いていたいと思うほど耳に心地いい。


「どうかなさいました?」


 ぼーっとしていた私に彼女は首をかしげた。ハッとしてあわてて姿勢を正す。


「いらっしゃいませ、オーナーですね。すぐに呼んで……」


「おや、百合子君じゃないか」


 呼びに行くまでもなくオーナーが出てきた。それはそうか。店内は防犯カメラでチェックしてるんだもの。

 百合子さんはオーナーに向かって軽く頭を下げた。


「突然お邪魔してしまって、申しわけありません」


「とんでもない。この画廊は言わば君のものなんだから、いつでも足を運んでくれ」


 ちっとも心がこもっていないセリフをオーナーが口にする。百合子さんから奪い取った店でのうのうとしているくせに。


「ここで立ち話もなんだし、どこか近くでコーヒーでも」


「いいえ、すぐにすむ用件ですから」


 百合子さんはチラリと私に視線を向けた。私は会話の邪魔なのかなと気を利かせてバックヤードに戻ろうとすると、百合子さんは私に声をかけた。


「あの、あなたのお名前をうかがっても、よろしいかしら」


「船木美和です」


「美和さん。かわいいお名前ね」


 そう言って百合子さんはニッコリと笑ってくれた。こんなきれいな人から褒めてもらえるなんて、私は生まれて初めて、自分の名前を誇らしく思った。


「橋田さん」


 百合子さんがオーナーに視線を戻す。先ほどの笑顔が嘘のように消えていた。


「『背中』の新作を納めたいのですけれど、今回も号数が大きくなってしまって。搬入作業に人手をお借りしたいの」


 年若い百合子さんはオーナーに対しても堂々としている。画廊のオーナーに対する作家というよりは、画廊のオーナーと雇われマネージャーのように見える。

 まあ、それもそうか。今のオーナーの財産は百合子さんの恩情で与えられたものなわけだし。


「もちろん、力を貸すよ。すぐに業者を手配しよう。作業には私も立ち会うから、安心して欲しい」


「いいえ、橋田さんの手をわずらわせるつもりはないんです。でも、出来たら、彼女」


 百合子さんがまた私に笑顔を向ける。


「美和さんに、お手伝いしていただきたいのですけれど」


 突然の指名に驚いて思わず、オーナーに目を向けると、オーナーも驚いたようで私を頭のてっぺんから、つま先までジロリと見おろした。なんだか不愉快になって、すぐに目をそらしたけれど、オーナーの視線はこちらに向いたままだ。


「ね、美和さん。お願いできるかしら」


「もちろんです!」


 考えるよりも先に返事が口から飛び出した。

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