背中 く


「美和君」


 私がお昼休憩をとろうとバックヤードに引っ込むと、五連勤のオーナーに呼ばれた。

 なんで下の名前で呼ぶの?

 今までは普通に苗字で「船木君」と呼ばれていたのに。


「最近はお客様の来店数はどうかな」


 どう、と言われても。まったく来ていませんともいいにくい。


「ええ、まあ。変わらずといいますか、えっと……、変わりないです」


 しどろもどろの私にオーナーは微笑みかけた。ちょっと、気持ち悪い。

 五十いくつか知らないけど、いい年をしたおじさんなのに、自分ではカッコいいつもりなのが丸わかりで、私はオーナーが苦手だ。高そうなブラックスーツも、オールバックに固めてテラテラ光る髪形も、なんだかジジ臭い。体形だけはキリっとしているけれど、スケベったらしい雰囲気がぷんっぷん臭っている。


「この画廊はあまり知名度が高くないから、君も暇じゃないかな」


 なんだなんだ。暇じゃないかなって、もしかして、解雇とかそういう話?


「えっと、でも、毎日、いろいろお仕事させていただいてまして、働き甲斐があります」


「そうかね。若いんだからもっと仕事量が増えても大丈夫かなと思ったんだけど、どうかな」


「はい! ぜひ!」


 やった。この暇な毎日に新しい刺激がやって来る。スキルアップも出来るかもしれない。


「良かった。じゃあ、新しい仕事の内容について、今晩、食事をしながら話そうか」


「え……、食事って」


「もちろん、美和君の好きなものでいいよ。何がいいかな? この近くにフレンチの美味しい店もあるし。そうそう。この季節なら鍋なんかもいいね。座敷で、二人で、ゆっくり話も出来る」


 ゾワっと背中に鳥肌が立った。この人と二人でなんてって考えただけでダメだ。


「美和君、どうかしたのか?」


 近づいてきて手を握られた。どうしよう、逃げたい。でも、ここで逃げたら仕事がなくなるかも……。でも、このままだと何をされるか……。ああ、どうしよう。ドアはオーナーの向こう側だ。突き飛ばしでもしないと逃げられない。どうしよう!


 その時、表のドアが開いたことを知らせるチャイム音が鳴った。


「お客様です!」


 甲高い声が出た。でもそんなことにかまっていられない。オーナーを押しのけて表に出て行く。


「いらっしゃいませ!」


 救いの神だ! 救いの神だ! 今すぐにでもすがりつきたい! 


 入って来たのは若い女性だった。長い黒髪、ほっそりした体、真っ白な肌。そして、どこか遠くを見ているような瞳。

 その瞳が私をとらえた。高坂百合子……。


 私は彼女の美しさから目をそらすことが、出来なかった。

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