背中 じゅうさん
百合子さんとオーナーはバックヤードのモニターで加藤田さゆみのことを見ていたらしく、会話の内容を問い詰められた。そのことについて「他言無用だよ」とオーナーから釘を刺された。
百合子さんを見ると、ニッコリと微笑んでくれたから、誰にも喋らないことに決めた。
いつまた、さゆみが現れるかとビクビクしながら毎日、出勤していたけれど、二週間たっても、何ごとも起きない。怖がっていたのがバカらしくなった。
「いらっしゃいませ」
そのお客は画廊には似つかわしくないほど汚い風体だった。ジーンズはおしゃれのためのダメージではない、すり切れただけの穴が開いていて、スニーカーはなんだか薄汚れているし、というか、この人自体が薄汚れていた。
三十歳くらいだろうか。無精ヒゲとぼさぼさの髪、襟の内側が黄色に変色したシャツと、アイロンなんか知らないようなトレンチコート。
絵を見に来たのではないことが一目でわかる。冷やかしだろう。
と、思っていると、絵に目を向けた。二十三歳の背中の絵をじっと見上げている。あまりにも真剣な、一途なまなざしが見た目と違って、驚いた。
じっと見ていると、その人と目が合った。あわてて視線をそらしたけれど、観察していることはバレている。お客に対して失礼千万。苦情を言われかねない。
ほら、まっすぐ、こちらに向かって来た。
「ちょっと、聞きたいんだけど」
そう言って、ジーンズの後ろのポケットから取り出したのは、警察手帳だった。本物を初めて見た。思わずまじまじと見つめてしまう。金色のカッコいいマークと、身分証明書みたいな写真。あ、そうかこれは警察の身分証明書だ。
写真の中のこの人は制服を着てきちんとしていた。小奇麗にしていれば、かなりカッコいい人だ。
目を上げて本人を見ると、とても同一人物とは思えないけれど、顔の作りは、なるほど、整っている。
「あの絵は、いつから飾ってあるの?」
二十三歳の背中の絵を指し示して聞かれた。いったい、何ごとなのかと身構えてしまうけれど、警察官に嘘を言う必要も、隠す必要もないだろう。素直に話すことにした。
「二週間ほど前です」
「作家は来たの?」
「はい。搬入の際には」
「どんな人?」
どんな、というのは、何についてなんだろう。年齢、性別、職業……は画家に決まっている。とりあえず、一番に伝えるべきことは。
「美しい女性です」
「それは知ってる。橋田坂下のモデルだろう」
画廊の奥、オーナーの兄の絵を振り返って、刑事はその姿を確認した。外見のことじゃないなら、なんだろう。私が知っていることといったら。
「優しくて、すごく親切な方ですよ。上品で、見かけだけの美しさじゃないって言うか……」
「親しいの?」
私の言葉を遮って質問は続いた。
「いえ、一度お会いしただけですので」
「ふうん。弟には会った?」
「いえ、一度も」
「加藤田さゆみを知ってる?」
ああ、ストーカーの捜査に来たのか。それなら、全面協力しないと。
「知っています。二度、来店されました」
「あんた、記憶力いい方?」
突然、何の話だろう。突拍子もないところから喋りだす人だ。
「悪くはないと思いますけれど」
「じゃあさ、この人が来たら、連絡して」
刑事は一枚の写真を差し出した。男性の写真だ。どこかで見たことがある気がする。いつ、どこで? と、ふと思いついた。
「あの、もしかして、この人は百合子さんの弟さんですか?」
「いや、違う」
あれ、違ったか。『背中』の絵と雰囲気がそっくりだったんだけどな。
「とにかく、見たら連絡をくれ。それと、今日のことは人に話さないでいてくれると助かる」
「わかりました……」
刑事は、しわくちゃのメモを置いて出て行った。携帯の電話番号にかけるように言われたそのメモには『北条』という苗字も書かれていた。見た目にそぐわないキチンとした文字で、なんだかおかしくなった。
刑事に聞き込みされたなんて、出来れば誰かれかまわず話して周りたいけれど、百合子さんの弟さんのためだ。我慢、我慢。
そう言えば、「誰にも」言うなと言われたけれど、百合子さんには、どうすればいいんだろう。刑事さんが来たなんて言ったら、かえって心配をかけるかな。黙っていようか。うん、そうしよう。
その時、ハッと思いだした。あの写真の人、知ってる!
いつだったか、お弁当を食べている時に来店されて、私の口の青のりを笑った人だ!
思い出しただけで、カッと顔が赤くなった。そうだ、さっきの刑事さんにこのこと話した方がいいかな。
店の外に出てみたけれど、刑事さんの姿はなかった。ずいぶん前の話だし、見たら連絡を、と言われただけだし、わざわざ電話するほどのことでもないよね。
メモは受付のデスクにしまった。今日は青のりがついていないか手鏡で確認したけれど、大丈夫だった。
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