第10話 じゅう
九月三日。駅前で百合子と落ち合った。
かわいらしいピンクのサマーセーターを着た百合子が大きなショッピングバッグを抱えていたので、大基はさっと手を出して預かり、肩にかついだ。バッグの持ち手がずっしりと肩の肉に食い込むほど重い。
橋田坂下のアトリエは関西の山奥にあるという噂だったのだが、百合子に連れられてきたのは市内の一等地。いったいこの一軒の家の中には何部屋あるのか見当もつかない、というくらい大きな屋敷が立ち並ぶ一角だった。大基は口をぽかんと開けて、お屋敷を一件ずつ眺めながら歩いた。
「ここが先生のお宅よ」
一軒の邸宅を百合子が指差す。周囲の屋敷の中でひときわ大きいその家は、コンクリートの高い壁が敷地すべてを取り巻いていて中の様子をのぞくことはできない。建物の屋根さえ見えない。個人の邸宅と言うより科学関係の研究所と言われたほうがしっくりくる外壁だった。
百合子はハンドバッグからリモコンを取り出し操作して、がっしりした鉄製の門を自動で開けた。なんの躊躇もなく、すたすたと入って行く。大基はきょろきょろしながら、へっぴり腰でついていった。
ちょっとした公園くらいはあるだろう広さの庭に、巨大な樹木が、砂利道に覆いかぶさるように茂り、まるで森のようだ。
その森の中央に、コンクリートをうちっぱなしにした真四角の建物がある。正面に、扉らしい四角い切れ目と鍵穴がついている以外はすべて、のっぺりとした灰色の壁面で窓は一つもない。
不思議と窓などないほうが正しい姿なのだと思える。建物の側面に回ってみても、やはりきっと壁しかないだろう。
百合子はバッグから、今度はいやに大きな古めかしい鍵を取り出した。手のひらに収まらないほどの巨大な鉄製の鍵を鍵穴に差し込み回した。
扉を押して大きく開き、さっさと中に入る。大基も続いて扉をくぐる。
扉、と言ってもコンクリートの壁が内側へ動いて行くだけで、取っ手も何も付いていない。
大基は、古い時代劇で見た白壁の土蔵を思い出した。
百合子は一度、鍵を引き抜くと、扉の内側に開いている鍵穴にさしなおし、鍵自体を取っ手の代わりにして扉を閉め、鍵もかけた。
巨大な倉庫に足を踏み入れたのかと思うような空間が広がっていた。
扉が閉まってしまえば、部屋と外とを繋ぐものは何もない。
ここには玄関らしき機能をもつ場所がないのだ。外は外。内は内。相容れるつもりはまったくないと宣言しているような作りだった。
百合子は靴のまま歩いていく。がらんとしたその空間には皮が破れかけているような粗末なソファが一つきり、ぽつんと置いてあるだけで、他には家具も何もない。
部屋中に紙がまき散らしてあり、どの紙にも意味不明の記号のようなものが書き付けてある。
「先生、参りました」
百合子が声をかけると、ソファに置いてある、今までボロ布と思っていたものが、むくりと起き上がった。
ボロ布はガリガリの手をにゅうと生やし、落ち窪んだ眼窩に、ぎょろぎょろと、それだけ別の生き物のようによく動く目玉で、こちらを見た。
「百合子君! よく来た、よく来た!」
ぎょろり、とその目が大基を捉えた。
と思うと、ぴょい、と猿のような身ごなしでソファから起き上がり、あっという間に大基に詰め寄る。鼻がくっつくほど顔を寄せて、じろじろとねめまわした。奇妙に体をよじり、左肩と左足を引きずるようにして大基の周りをぐるぐる回り、犬のように臭いをかぎ、大基の品定めをしている。
「先生、こちら、電話でお話しました……」
百合子が口を挟んだが、画家は聞いていないふうだ。
「きみか!」
ばん! と大基の背中を叩く。あまりの強さに、大基は咳き込んだ。
「よく来た! よく来た! さあ、来なさい! アトリエはこっちだ」
大基の手を掴み、画家がぐいぐいと引っぱっていく。百合子を振り返ってみると、眉根を寄せて困ったように笑いながらついて来る。
しかたなく、なすがまま、大人しく連行された。
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