第11話 じゅういち

 画家は部屋の隅にぽっかり開いた暗い穴に入って行く。窓がまったくない部屋は息を吐くのがためらわれるほどに暗かったが、画家は頓着しないですたすたと歩く。

 百合子が照明をつけた。とつぜんの白い光に目がくらむ。壁にある照明のスイッチは一つではなく、ボタンやツマミがずらりと並び舞台の照明装置のようだ。


 キャンバスの置かれたイーゼル。椅子がいくつか。山のような画材。

 片付けという概念をこの画家は持ち合わせていないのだろう。紙が層を成して積まれ、そこら中に筆やら鉛筆やら、なにやらかにやらが散乱していた。まるでゴミ箱をいくつも蹴散らしたように雑然としている。


「さあ、これが、姉さんだ。見なさい! 姉さんだ!」


 画家に手を引かれるままキャンバスの前に立つ。描かれているのは百合子の肖像だった。

 ピンクのサマーセーターに白いフレアスカート。今日の百合子の服装も同じものだった。少し右を向き、視線は宙をさまよっている。微笑みながら瞑想しているようにも見える。


「きみは、ここに座れ! 座るんだ! そして、見る。なにを? 私を! 私が絵を描くところをだ!」


 そう言って、画家は一つの椅子に大基を座らせた。正面に、画家のイーゼルが見える。


「百合子君、きみはここ! ここだ! 座る。そうだ、座る。きみは弟を見る」


 大基のななめ後ろの椅子に、百合子が座らされ、大基のほうを見てニッコリと微笑む。大基は目に困惑を浮かべて曖昧な笑いを返す。どうやら、画家は大基のことを、百合子の弟と思っているようだ。


「私はここ! ここだ! さあ、見るんだ! 見えれば、描けるのだ! さあ、見るのだ!」


 キャンバスの前に立った画家は、だらりと腕を伸ばしたまま、猫背になって、百合子を見つめた。

 画家、百合子、大基を頂点とする三角形。画家は百合子を、百合子は大基を、大基は画家を見つめている。

 ただ、見つめている。


 見つめすぎて、大基が二、三度、瞬いたころ、画家はようやく筆をとると、キャンバスに絵筆を突き刺す勢いで絵を描き始めた。

 はたから見ると殴り書きしているようにしか見えない。しかし出来上がるのは、緻密な計算で描き出されたとしか思えない繊細な絵なのだ。大基は魔法を見る心持ちで目を見開き画家を見つめた。

 画家の左半身が見える。右手で持った筆は、寸暇を惜しんで跳ね回っている。左足に全体重をかけ、右手を限りなく自由にし、絵筆を跳ね回らせている。


 画家が見つめているはずの百合子の姿は、大基の位置からは見えない。いったい、どんな顔をしているのだろうか。

 百合子は、自分を見つめている。百合子は目を開き、自分の背中を見ているのだ。いったい、どんな風に自分は見られているのだろうか。


 見えないのに、確かに百合子の視線を背中に感じる。首筋を肩を背骨を肩甲骨を、百合子の視線が這うのを感じる。


 見られている。

 手で撫でられているような圧力を持った視線が、背中を這っている。ゾクゾクと、背中に何かがこみあげてくる。頭に血が上って何も考えられない。自分がどこにいるのかわからなくなる。


 ここは、自分の部屋ではなかったか。見慣れた散らかった部屋。

 ほらそこにテレビがある。おや、おかしいな、何も映らないぞ、真っ白だ。いや。いや。いや違う。

 あれはキャンバスじゃなかったか。

 ここはどこだ?

 ふと、足元でギシっと大きな音がしたような気がして、踏みとどまった。

 と思ったが、足は両方とも、ぺたりと地面についており、自分が椅子に腰かけていることを思い出した。


 世界がぶれたように、がくん、と揺れた。あわてて視線をまっすぐに戻すと、画家が絵筆を振り回しているのが見えた。いけない、ぼうっとしていた。

 千路に乱れる思考を、必死にとどめて、画家の動きに全神経を注ごうとする。


 パレットの上で色を作り、叩きつけるように画布に描く。絵の具は飛び散り、画家の服に、顔に、頭に色々な点々を描く。ただただ、描き続ける。


 画家は、百合子だけを見つめていた。その視線を追って、背後を振り返りたい衝動に、大基はあらがい続けた。振り返ってしまえば、この世のものではない何かを、恐ろしい何かを見てしまう気がして。


 唐突に、画家がだらりと腕を下げる。どうやら描き疲れたらしい。

 いったい、どれだけの時間が過ぎたのか、大基にはわからなかった。それほど必死に画家を見つめていた。振り返ってしまわないように、必死で自分を押さえ、恐怖と闘っていた。


 まだ首筋に視線が張り付いているような気がしている。大基は大きく息を吸い込み、勢いをつけて振り返った。


 彼女はすでに立ち上がって大基に背を向けていた。彼女は、何を見ていたのだろうか。本当は自分の背中など見ていなかったのではないだろうか。もっと深いなにかを、大基自身にすら見つけられない何かを、大基の中にのぞいていたのではないだろうか。


 振り返った百合子はいつもの微笑を浮かべていた。


「先生、お食事になさいますか?」


 百合子の声を聞いて、百合子が生きて動いていることを思い出した。なぜか大基の頭の中では百合子は過去のまぼろしで、画家は美人の幽霊を見つめて絵を描いているのだという気がしていた。

 この部屋に存在するのは、自分と、画家と、生きてはいない百合子の視線だけのような気がしていた。


「お。おおおお。食べよう。うん。食事、かね、うん」


 画家はだらりと両腕を垂らしたままで答える。果たして、問いを理解しているのか、自分自身の回答を理解しているのか、はなはだ怪しい口調だ。

 何も見ていないように、視線はぼんやりと宙を漂っている。


 百合子は、すっと部屋から出て行った。大基は百合子について行くべきか逡巡したが、長時間、身動きしなかったせいで全身の筋肉がこわばり、咄嗟には動けない。首や肩をコキコキと動かしていると、画家が大基に詰め寄った。


「さあ、おいで。きみは見るのだ。見るべきだ。ひみつだ。百合子君にはひみつだよ」


 画家はくるりときびすを返すと、アトリエを出て行く。大基は急いで立ち上がると、ぱきぱきと関節を鳴らしながら、画家の後に続いた。


 画家は無人のダイニングをのぞきこむ。その先の扉はキッチンに続いているのだろう。百合子がいないことを確認して、ササッと通り過ぎる。

大基も真似て、こっそり通り過ぎる。

なんだろうこれは? 探偵ごっこだろうか?


 いぶかりながらついて行くと廊下の先にぽっかりと、闇が口を開けていた。どうやら地下へ続く階段があるらしいのだが、廊下の電灯の光も届かず、そこにはただ、闇が凝っていた。もしかしたら階段などなく、垂直に落とし穴が開いているだけなのかもしれない。大基は恐れて立ち止まった。


 画家はためらうことなく、すたすたと階段を降りて行く。その頭はぴょこんぴょこんと上下しながら、すぐに闇に飲み込まれ見えなくなった。

 その真っ暗な穴に消えた画家の後についていくことができず、大基は手探りで、壁に電灯のスイッチがないか探したが、なんの手ごたえも得られない。

 仕方なく、壁に手を突き、足で段を探りながら降りていった。


 しばらくすると、階下で木製の扉がきしんだようなギイという音がして、ほんのりとした灯りがともった。灯りは弱くはあったが、なんとか階段まで届く。

 闇に慣れた目にはその光だけで十分だった。大基は残りの階段を駆け降りた。


 頑丈そうな分厚い木の扉の奥に、ひやりとした空気に満ちた部屋があった。温湿度調節されているらしい。作品の保管庫のようで、たくさんのキャンバスが並んでいる。


 画家は左肩と左足をひきずるように、ひょこひょこと奥へ歩いて行き、人がすっぽりと入れそうなほど巨大な金庫のダイヤルに手をかけた。ダイヤル式の鍵を、右に左に、ぐるぐると回す。まるでやけくそに適当に回しているように見えたが、すぐに金庫の扉が開いた。

 中に入っていたのは、書類が少しと、小ぶりのキャンバスが一枚。画家はぐるっと振り向き、手振りで大基にドアを閉めるよう指示した。大基があわてて閉めると、やっと金庫からキャンバスを引っ張り出した。


「ひみつだよ」


 小声でそう念を押してから、画家はキャンバスをくるりと回して表側を大基に見せる。

 百合子だった。

 椅子に腰掛け、こちらを見つめて微笑んでいる。どこか陶然としたその視線は、大基の視線をからめとり離さない、不思議な力を持っていた。


 絵の中の百合子の視線は正面からやってくるのに、なぜか背中まで見透かされている気がして、自分が透明人間にでもなった気がして、恐れというより恥ずかしさを覚えた。

 自分のちっぽけで薄汚い欲望もすべて見抜かれ微笑でかわされているようで。


「ひみつだ」


 いつの間に近づいていたのか、橋田がすぐ耳元でささやく。

 驚いて顔を向けると、橋田は先ほどまでの奇矯な振る舞いが嘘のように、理性に支えられた瞳をしていた。心なしか、背筋もまっすぐしているようだ。


「百合子君にはひみつだ。これは君にだけ見せる。そのために描いた」


 橋田は百合子を「ねえさん」と言わない。それが当然だと思っているような確かな口調だった。


「この絵はツキクルウという。トリツキクルウ、だ。この目を、覚えておきなさい」


 橋田は、さっさとキャンバスを金庫に仕舞うと、ぐるぐるぐるぐるといやに念入りにダイヤルを回し、鍵をかけた。


「さ、行こう。ねえさんのご飯を食べよう」


 そう言うと、画家は左足と左肩を引きずるようにして階段を上っていく。大基は部屋を振り返り、もう一度、金庫を見た。


 ツキクルウ。憑狂。


 それが何を意味するのかはわからなかったが、それが最も、あの絵にふさわしい題名だ。

 なぜか、そう感じていた。

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