第9話 く

 アパートに遊びに来たさゆみに、靴を脱ぐ暇も与えず、大基は事の顛末を話して聞かせた。


「ね、すごくない? オレが百合子さんの弟に似てたってのも運命かもしれない」


「ふーん。良かったじゃない」


 さゆみはそう答えると、きびすを返し、帰ろうとする。


「ちょっと、何だよ、それ。何むくれてるんだよ」


 笑顔を隠せず、ゆるんだ顔のまま、さゆみの肩に手をかけたが、さゆみはバシっと音がするほど強く大基の手を振りほどいた。


「よかったじゃない美人とお知り合いになれて、憧れの画家に会えて! ついでに就職先も、百合子さんとやらに斡旋してもらえばいいんだわ! 馬鹿!」


 怒鳴ると、さゆみは走って玄関を出て行ってしまう。


「おい、さゆみ?」


 玄関から首を突き出して呼びかけたが、さゆみは振り向きもせずに走って行った。


「なんだ、あいつ……」


 大基は首をかしげたが深くは考えず、部屋にもどって自分の妄想に没頭した。

 橋田画伯に会ったら、どんなことを話そうか? 色々質問したら失礼だろうか? とりとめもなく考えていると玄関が開き、人の足音がした。

 さゆみが戻ってきたんだろうと思って廊下をのぞいたが、誰もいない。


「あれ? 空耳?」


 玄関へ立って行き、開けっぱなしだった鍵をかけた。



 大基の幸運の女神から、橋田坂下のアトリエを見学する許可が取れたと連絡があったのは、それから一週間ほど後のことだった。大基は幸せのあまり眩暈を感じた。


 ただし訪問日程は、夏休みが終わってから。九月初旬が都合が良いと言われた。大基は橋田坂下に会えるならいつでも大歓迎と気安く返事をした。


 しかし日にちが経つにつれ、これから一ヵ月半も待ちぼうけなんて苦行のようだと思うようになった。憧れの画家に会える期待とルーティンワークのつまらなさの落差に、バランス感覚がついていけていないようで、しばしば眩暈を感じる。


 倒れるほどではないので放っているが、さゆみにでも知られたら「病院へ行け!」と命令されてしまう。

 大基は医者がこの世で三番目に怖い。なんとか、さゆみにばれないように健康なフリを続け、夏休みをむかえた。


「もう! またゴロゴロしてる! 補講にも出ないで!」


 部屋に入ってくるなり怒るさゆみの方へ、ベッドの上の大基はゆったりと寝返りをうった。


「よ。いらっしゃあい」


「牧田先生、怒ってたよ。このまま補習受けなかったら、後期の単位もやらんから、そう思えって。伝言」


 有頂天に浮かれていたためか、大基の前期試験の結果は酷いものだった。しかし夏休みに入り、これであと一ヶ月待てば橋田坂下に会える。

 大基は笑いがこみ上げるのを堪えきれず終始ニヤニヤしている。あまり外でニヤニヤしていると怪しいヤツだと通報されかねないので、大基は毎日アパートに篭って過ごしていた。


「なんだ、さゆみ、学校行ってるの。夏休みなのにごくろうさま」


 手枕でノンビリと言う大基の言葉に、さゆみの目が吊りあがる。肩にかけたカバンから書類を取り出すと、大基の顔の上に投げつけた。


「あいた。何するんだよお」


「ほんとに! どこまで寝とぼければ気がすむわけ! 文書修復口座の申し込み、今日だってば! 受けるんでしょ!」


「ああ……。忘れてた。なんか、もう、いいかなあ」


 さゆみの目はほとんど三角形になるほど吊りあがり「バカ!」と叫ぶと、ミシミシと足音高く廊下を歩き、出て行ってしまった。


「カッカしちゃって……。ますます暑くなるぞ」


 大基は一人ごちて、ごろんと寝返った。



 数日すると、さゆみの怒りは消えたようで、大基の部屋にやって来ては海に行こうよ、山に行こうよ、どこか行こうよと大基の腕を揺する。

 その言葉が聞こえているのかいないのか、大基がニヤケ顔でただ頭をなでてやると、さゆみは頬をふくらませて帰って行く。そして三日とあけずに、またやって来ては同じ事を繰り返し続けている。


 大基はさゆみの言葉にかまわずニヤニヤダラダラし通した。前期の単位をいくつか落としたのに補習講義にもまったく出ない。そんなことも気にならないほどに夢見心地だった。


 だが、一日中部屋にいると今まで気付かなかった近隣の音が気にはなった。

 とくに上階の住人は子供でもいるのか、朝から晩まで時を選ばず、ぱたぱたぱたぱたと足音を響かせている。ニヤけているから良かったものの、もし暑さでイライラしている隣人であれば、刃傷沙汰になったかもしれないな、とニヤニヤしながら考えていた。

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