第8話 はち
突然、舞い込んだ幸運に、大基は呆然としたまま数日を過ごした。
おかげで牧田の講義の単位は落としてしまったが、そんなことは苦にもならない。
橋田坂下の製作工程を見ることが出来る。どんなメディアにも、有名画廊にも非公開の秘密を垣間見られるのだ。
大基が絵の道を志したのは小学生の頃のこと。夏休みの自由研究のために初めて訪れた美術館で、橋田坂下の絵を目にした時だった。
双幅の掛け軸だった。
一幅には所せましと居並ぶ天人天女が無数に描かれ、もう一幅には今にも血の臭いが立ち上りそうな地獄絵図が描かれていた。
それまで絵画というと、美しいものをお行儀良く描くものだと思っていた大基は、地獄絵図の汚らしさ、凄まじさに衝撃を受けた。
痛み、苦しみ、吐き気、後悔、臭気、快楽、憎悪、怒号。
地獄絵図からは、ありとあるすべての苦しみと対峙するしかない、生あるものの悲しみが、見えない炎となって立ち昇り、掛け軸自身をごうごうと燃やしているかのように見えた。手を触れれば、その炎に骨まで燃やされそうだった。
対する天上の絵は、ただ気高く、厳しく、香り高く、何ものをも寄せ付けない、ゆるしも慈悲も与えない冷徹さを持っていた。
こんな絵が描けるなら、死んでもいい。
それ以来というもの、大基は紙の前に座り続けて、目に映るあらゆるものを描いてきた。
しかし、描いても描いても、紙の上にあるものは、モノの絵以外の何物でもなく、臭いを感じ、熱を帯びることは一度たりとも無かった。
ある時期から、橋田坂下は美人画だけを描くようになった。日本画を捨て、油画に転向した。
天女であったり、娼婦であったり、子供であったり、大人であったりしたが、その美人はすべて一人の女性をモデルとしている事は有名だし、一目瞭然だった。
奇矯な行いと奇抜な画風で、熱狂的なファンはいても一般に知られていなかった橋田坂下の評価は、美人画のおかげでうなぎのぼりだった。橋田の弟が経営する画廊が市内の一等地に居を移したのも、ひとえに美人画のおかげだと言われている。
幸運の女神だと言って、橋田の美人画を買い求める人も多いという。
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