第7話 しち

 百合子の住まいは高級そうなマンションだった。大基のアパートとは比べ物にならない。オートロックのガラス扉をくぐると、エントランスには来客との接見用だろう、座り心地の良さそうなソファが置いてある。掃除も行き届いているようで、床には塵一つなく、ピカピカに輝いている。

 間接照明でいつまで乗っていても苦にならなそうな、居心地の良いエレベータで三階に上がる。通路にはドアが三つしかない。


「ほんとうにありがとう。重かったでしょう? どうぞ、上がって」


 ドアを大きく開けてくれた百合子の脇を通り、玄関に足を踏み入れる。


「どこに置けば?」


「突き当たりの部屋まで持って行ってもらえるかしら?」


 靴を脱ぎ、荷物を肩にかついだまま部屋に上がる。

 玄関からすぐ、廊下をはさんで左に洗面所。右は和室だろう、襖が閉まっている。整頓された広いダイニングキッチンを通って、奥の洋間に入る。

 ここが百合子の部屋なのだと、すぐに分かった。この部屋もやはり、大基の部屋と同じように筆やら絵の具やらスケッチブックやらであふれている。片付き方は格段に違うが。

 部屋の中央に置いてある大きめのイーゼルに、運んできた荷物を立てかけた。


「今、コーヒーをいれるから、休んでいってね」


 台所で水音をさせながら、百合子が声をかけた。


「あ、どうぞ、おかまいなく」


 そう答えて帰ろうと動きかけた時、壁にかかった小さな額が目に入った。大基の動きが止まる。


 橋田坂下はしだばんげの絵だ。


 はしだばんげ。

 どちらが苗字か名かわからない雅号のこの画家の絵を、大基はもっとも愛している。

 もともとは日本画が専門の作家だったのだが、最近は油画の作品で人気がある。狂気の画家と呼ばれ奇行で有名だが、その画風は繊細で優雅だ。

 そうだ、何故、気付かなかったんだろう。

 百合子はまるで、橋田坂下が描く美人が絵から抜け出して来たようじゃないか。まるっきり、生き写しではないか。


 大基はぎこちない動きで絵から目を引き剥がすと、転がりだしそうな勢いで、どたどたと足音を鳴らし台所に駆け込んだ。百合子がびっくりして目を丸くする。


「ゆ、ゆりこさん。は、は、はしだ、ば、ばんげの……」


 どもりながら、なかなか二の句が継げない大基に、百合子は微笑んで答える。


「ああ、やっぱり。大ちゃんは橋田先生の絵が好きなのね。大ちゃんの絵を見て、そうじゃないかと思っていたの」


「あ、あの、絵……」


 震える指で奥の部屋の壁をさし示す。


「あの絵は、大学進学のお祝いに、先生がくださったの。私、中学生の頃から先生のところでアルバイトしていたから」


「……モデル、ですね」


 百合子は微笑み、うなずくと、手にしたメッツナーのマグカップを食卓に置く。


「こんなカップでごめんなさい。手狭なもので、なかなか物が揃えられなくて。どうぞ、召し上がれ」


 大基はうながされるまま椅子に座り、マグカップを両手で掴んだが、

視線は百合子に注がれたままだ。カップが熱いのか冷たいのか、そんなこともわからないほど、大基は興奮していた。


「は、橋田画伯は製作中、誰も、アトリエには入れないって……」


 百合子はコーヒーを注いだ湯飲み茶碗をかかえて椅子にきちんと座ってから答える。


「そうなの。だから先生が絵を描いている間は、私と先生、二人きり」


 正面から大基の目を見て、にっこり笑う。


「でもそれは私が人に見られるのが恥ずかしくて、先生にお願いしたからなの。よかったら、大ちゃんが見学できるように、頼んでみましょうか?」

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