第6話 ろく

 まったく身が入らぬまま午後の講義を終え、大樹はとぼとぼと駅へ向かった。


 途中、百合子の後ろ姿を見つけた。幅は薄いが自分の背丈ほども大きいダンボール箱をかつぎ、よろよろと歩いている。大基は一目散に駆け出すと、百合子に追いつき声をかけた。


「先輩、持ちますよ」


 振り返った百合子は、全身で微笑んだ。まるで、大基に会えた事が至上の喜びだとでも言わんばかりに。あまりに眩しい微笑みに、大基はニヤけそうになったのを、ぐっとこらえる。百合子はそんなことに気付いているのか、いないのか、素直に嬉しそうだ。


「ほんと? 助かったわ。ありがとう、大ちゃん」


 中身はキャンバスだろう。五十号くらいか。大柄な大基にとっては大した重さではないが、小柄な百合子は、持ちにくさも相まってか、完全に振り回されていた。か弱い儚さ、そんな姿も美しい、と心の中でつぶやき、大基は一人で照れてそっぽを向きながら荷物を受け取った。


「これは、課題ですか?」


 肩に荷物を揺すり上げながら聞くと、百合子は首を横に振る。


「ライフワークの作品なの。先生が見たいっておっしゃってくださったから持ってきたんだけど……。ちょっと張り切って大きく描き過ぎたわ。まさか、持って歩くことになるとは思わなかったから」


「ライフワーク……。まだ学生なのに、すごいですね」


「大げさな言い方になっちゃったけど、昔からずっと描きつづけてるから

一生続けようと思っているだけなのよ。ちっとも、すごいものじゃないわ」


「テーマは、何ですか?」


「成長。弟の成長記録なの」


「なるほど」


 そこで、会話は途切れた。

 大基は百合子に会ったら聞いてみたいことが山のようにあったのだが、実際に本人を目の前にすると頭の中はカラッポで、いったいぜんたい何を聞きたかったのか、ちっとも思い出せない。沈黙が続くことに耐えられず、何か聞くべきことを探して頭をフル回転させていると、百合子が口を開いた。


「あのね、大ちゃん」


 立ち止まって大基を見上げた。大基はドギマギしながらも、百合子の視線をなんとか正面から受け止める。


「え。なんでしょう」


「敬語を使われるの、あんまり好きじゃないの。あと、先輩って呼ばれるのも。名前で呼んでくれる?」


 大基はさらにドギマギする。名前でって、苗字のことだろうか、それとも下の名前? 判断がつかず、いつも頭の中で呼んでいる通りの呼び方を選ぶ。


「……百合子、さん?」


「はい」


 百合子はうれしそうにニッコリと笑う。大基は首から頭のてっぺんまで真っ赤になっていって、完全に血が上り、百合子に返すためのうまい言葉が見つからなかった。

 しかし頭の片隅では冷静に、この笑顔を見るためならオレはどんな要求にも応えるだろう。そう思っていた。

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