4 狼の苦しみ

「よぉーし!今日は山登り!滝で遊ぶぞぉー!」

零はピョンピョン飛び跳ねながら旅館を出た。理世さんは元気ねぇと笑っている。零が企画した山登りは決して厳しいものではなく、比較的楽だった。只々水遊びがしたいということらしい。10月に入ったというのにまだ暑い。異常気象も大概にしてもらいたい。秋だといえば納得がいくのだが、やはり暑い。小汗をかいたところで後ろを歩いていた空が小声で透に話しかけた。

「大丈夫?」

「大丈夫だ!こんなん楽勝」

「いや、そうじゃなくて」

空はしかめっ面で、横腹を突いた。透は苦笑いする。

「ああ。水が怖いってことにするつもりだ」

空はそうとだけ呟くと前を見た。

「うぉー水だぁー!」

と上で叫ぶ声が聞こえた。皆は服を脱ぎ捨て、水に飛び込んでいった。その光景を見て、時々ソラを見上げては目を細め、また眼前を見ては少し笑う。すると、それに気付いた零が水から上がってきた。

「あんた達入らないの?」

「実は俺、水が怖いんだ」

透は悲しそうに俯く。

「うわっ意外!幽霊の次は水?!へぇー。で空は?」

「僕は付き添い」

と笑った。零は透を散々いじり尽くした後、また水へ入っていった。透は少し不貞腐れて、それを見た空は含み笑いをした。紅葉で真っ赤になった木々が我々を守るように大きく大きく揺れて音を立てた。

「ふぁー。疲れたー」

ある人は肩を回し、ある人は足を揉み、ある人は伸びをした。

「おかえり、夕食できてるわよ」

今日の献立はしゃぶしゃぶだった。皆は円になって座り、箸をつけ始めた。

「はい!じゃあ、食べるよー。前にも言ったけど未成年は絶対お酒飲んじゃだめだから!」

とだけ叫ぶと、零も食べ始めた。すると、理世さんが空に飲み物を持って来た。

「はい。空ちゃんはジュースね」

「あっ。ありがとうございます。覚えててくれてたんですね」

「もちろんよ」

「どうしたんですか?」

祐希が口を挟む。

「僕お酒全然ダメなんだ。成人式の日に理世さんの家で飲んだとき、凄い暴れちゃって」

空は恥ずかしそうに、はにかんだ。何故かその話に祐希は目を丸くした。

「へぇー!知らなかったです。空先輩お酒とかバリバリ飲んでるイメージだったんで!」

「えっ!僕ってそんなイメージだったの?」

「あら、素直で面白い子ね」

理世さんはニコッと笑いかけると、駆け足で去って行った。すると、透が空の肩に寄りかかった。

「ちょっと透」

肩を揺すっても起きない。

「どうしました?透先輩」

祐希は顔を覗くとクスッと笑った。

「こうして見ると透先輩って可愛いですよね」

と頬を突いた。空もつられてクスッと笑う。空は透を部屋に連れて行き、布団の上に寝かせた。寝るには苦しいだろうと詰襟のジャージの上を少し開けた。目に映ったのは、首の痣だった。二cm程の痣だったが、それは長細かった。明らかに指の痕だ。それに、無数の引っ掻き傷。

「透…まだ残ってるんだ…」

首に触れようとしてやめた。思わず強く目を瞑る。

「助けてやれなくて…ごめんね」

唐突な謝罪に彼は戸惑っているだろう。けれど、彼の傷を見るたびに思う。これは、呪いだ。一生憑いて回る。彼がそれを隠しているという事実さえ、申し訳なく思う。そう頭で考えていると心の底から感じたものが目から零れ落ちた。早く戻らないという焦りも感じながら、でも止まってはくれない。そのうち、口の中に血の味がジワジワと広がっていく。ただ月明かりに照らされていた。

「空先輩まで寝てる」

伊織は思わず声を潜めた。お互い顔を見合わせるとニヤリと笑って、布団を空にかけた。すると、空のまつ毛が濡れていることに気付いた。

「おい、祐希これ…」

他の皆が祐希を呼ぶ。祐希はあぐらをかき、一息吐くと話し始めた。

「空先輩はさ、完璧で強くて優しくて、何でもできる凄い人だと思うけど、空先輩を見てると時々心配になる。何か重要なことを抱えてるんだよ多分。それで、時々こうゆうふうに泣いてしまうんじゃないか?」

と皆の顔を見渡した。そして深く頷く。すると、零れ損ねたような涙が一筋、顔をつたっていった。


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