第17話 瞑想
完全な暗闇と静寂。とりあえず座布団の上に座って、瞑想を始めるが私の中には不安と恐怖しかなかった。後悔が頭の中を支配する。私は一体こんなところで何をしているのだろうか。なぜこんな事になったのか。
もし私が普通に生きれていられたら・・、兄が殺されず、母の心が壊れず、父がアル中にならなければ、家族が普通に生活出来ていたら・・・、私は今頃、普通に高校に通い、何の迷いも疑問も持たず、勉強をして、先生や親の言う事を聞いて、素直で良い子で、大学受験とか、恋愛とか、将来設計とか、友達とだべったり、無駄話したり、道草したり・・・、そんな当たり前の青春を謳歌していたのだろうか。
―――眠い、お腹すいた、というか動きたい。立ち上がりたい。自由に動き回りたい。最早、後悔する事すらも忘れていた。ありとあらゆる苦痛と痛みが全身と精神の奥深くまで襲ってくる。
まだそれほど時間はたっていないはずだったが、すでにありとあらゆる苦痛が、全身と全精神の隅々に襲ってきていた。
周囲には相変わらず暗闇と静寂しかなかった。私が私を保つ手掛かりは周囲に何もなかった。
―――どれだけの時間が経ったのだろうか。一時間だろうか。二時間だろうか。もしかしたら、一日、もう、一週間位たったのかもしれない。時間の感覚は完全に無くなっていた。
足や関節、背中を襲っていた痛みも、痛みすぎてどこかへ通り過ぎて行ってしまった。もう疲弊し過ぎて、何が何やら訳が分からず、悩みすらも浮かんでこなかった。
ただ私という感覚だけがそこに流れていた。それをただ私は追いかけた。
―――心が妙に落ち着いていた。周囲の静寂と一体になるかのように心の中に静寂が広がっていた。さっきまで暴れまくっていた苦痛が嘘のように消え、私の心は研ぎ澄まされた湖面のように平静だった。
―――周囲を包むどこまでも深い濃い完全な闇が、ゆっくりと私の心の中に入って来た。体が闇との境界線を失い始める。私の体は闇となり、更なる闇の中に溶け込んでいく。私は私を失い、私は私を漂う。
ポチャンッ、
突然、岩肌から微かな水滴の落ちる音が耳に響いた。
(あれっ)
それは何かが違っていた。
ポチャンッ、
頭の中で音が直接響き渡る。
ポチャンッ、
(うううっ、なんだこれっ)
それはあまりにも、強すぎた。
ポチャンッ、
たった一つの水滴の音が頭の内側から全神経を軋ませた。
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(うううっ)
ポチャンッ、
ポチャンッ、
微かな水滴の音が脳髄に直接音をぶつけられたように頭の芯に響き渡る。
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(もう、やめてぇ)
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(やめてぇ)
敏感な神経に容赦なく強烈な電気を流されるみたいに、音の響きが襲ってくる。
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(ああ~、気が狂いそうだぁ)
あまりに音が意識に鮮明に入り込み過ぎて私は狂ってしまいそうだった。
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(ああ~)
ポチャンッ、
ポチャンッ、
(あああ~)
私の意識はゆっくりと闇の中に薄れていった。
―――ポチャンッ
私は我に返った。
ポチャンッ、
水滴の音はいつもの正常な水滴の音に戻っていた―――。
―――周囲には再び静寂が訪れていた。静かで落ち着いた時間が流れていく。
(ん?)
背中に何か嫌な感じの悪寒を感じた。
ぬちゃっ、ぬちゃっ、
ぬめぬめとした何かが、洞窟の奥から這い出して来るのを感じた。それは巨大ななめくじのような、ナマコのような何かそんな感じの、形の無いぬめぬめしたグニャグニャしたものだった。なぜかそのことは私の中で分かった。
ぬちゃっ、ぬちゃっ、
それは確実に私の背後に近付いて来る。私はあまりの悍ましさに身震いし、戦慄した。今すぐ、思いっきり逃げ出そうかと真剣に考えた。
しかし、サン・マンチュルは何があっても動くなと言っていた。私は全身のありとあらゆるところの筋肉を踏ん張って耐えた。
ぬちゃっ、ぬちゃっ、
ぬめぬめは私の背後に辿り着くと、私を観察するように一定の間隔をとりながらゆっくり私の周囲を回り始めた。
ぬちゃっ、ぬちゃっ、
(来るな、来るな)
そう強く念じたものの私の願いは全く届くことなく、ぬめぬめはゆっくりと私の周囲を巡りながら私との距離を縮めていった。
ぬちゃっ、ぬちゃっ、
ぬめぬめはその気配を強烈に感じられる私のすぐ近くまで迫ってきた。私の皮膚は全身超警戒レベルの鳥肌が立ち、おぞ気だった。
(来るなぁ、来るなぁああ)
しかし、私の心の絶叫などやはり全く届くことはなく、ぬめぬめは私の体を這うようにゆっくりとぬめり始めた。
ぬゅるぬゅるぬゅる
(ぐわぁ~)
この世のものとは思えぬ身の毛もよだつ、気食悪さが全身を走りまわった。ぬめぬめは服も下着もすり抜け、直接私の肌を毛穴一つ一つまで丹念に舐め尽くしていくようにゆっくりゆっくりぬめっていく。
ぬゅるぬゅるぬゅる
(ぐわぁ~、やめれぇ~)
皮膚感覚全てのセンサーが、ぬめぬめの悍ましい微細な動き一つ一つを強烈に感知していた。精神の極限の更なる極限の更に極限まで私は追い込まれていった。
それでも私はサン・マンチュルの言いつけを必死で守り、全身を食いしばってじっとしていた。
ぬゅるぬゅるぬゅる
ぬめぬめはたっぷりと全身を何度もなめ回した後、今度は耳の穴から私の体にゆっくりと入ってきた。
ぬゅるるるるぅ~
(ぬああ~)
ぬめぬめは私の体の中に入ると、その内側を泳ぐようにうねうねと動きまわった。私の臓器、血管、筋肉、脂肪、骨、すべてを細胞レベルで丹念にまさぐりながら、爪の先から、髪の毛の一本一本までを、ゆっくりと楽しむように泳いで行く。
(ぐわぁ~)
それはもはや悍ましさの極限を超えていた。
(もうダメだ)
ぬめぬめは脳の中心から眉間の奥を通して、遂に心の中へと入り込んできた。
(ああああああ)
もう、私は限界だった。
私の意識はぬめぬめに侵され壊れた―――
―――瞬間―――、
(あっ)
ぬめぬめは突如消えた。
(・・・)
気づけば、今までの全てが無かったみたいに、ぬめぬめの感覚の残像さえもが完全に消えていた。
―――周囲は何事もなかったみたいに、再び静寂に包まれていた。また静かな時間が流れている。
「愛美~、愛美~」
私の背後の洞窟の奥から、何か声がした。
(母さんだ)
私は瞬間的に分かった。
「愛美~、愛美~」
(父さんだ)
「メグ」
(お兄ちゃん!)
お兄ちゃんの声だった。それは紛れもなくお兄ちゃんの声だった。
「愛美」
「メグ」
三人の声は私の背後からだんだん近づいてきた。
「愛美」
「メグ」
声はもう私の直ぐ隣りだった。母さんがいる。父さんがいる。お兄ちゃんがいる。目を開けたい。目を開けたい。思いっきり目を開けてその姿を見たかった。そしていっぱいいっぱい話がしたかった。
「メグ」
お兄ちゃんが耳元で囁く。
(会いたい、会いたい、会いたい)
お兄ちゃんに会いたかった。とてつもなく会いたかった。でも、サンマンチュルは絶対に目を開けてはならないと言った。私は瞼に渾身いっぱいの力を込め、目を固く固く閉じ続けた。
「メグ」
お兄ちゃんの声が悲しげな声に変わって行く。
「メグ」
(やめて、そんな声で呼ばないで)
「メグ」
(やめてぇ)
その時、突然今までの私の人生が一昔前の映写機の掠れたカラーフィルムのようにカラカラと流れ始めた。
「あっ、お兄ちゃん」
「お母さんもいる。お父さんも」
そこに幼い頃の兄がいた。若かりし頃の母がいた。父がいた。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんの匂いがする。ただの記憶ではなくそこにはまぎれもなく兄がいた。母も父も確かにそこにいて穏やかに笑っていた。
フィルムはどんどん流れて行く。母に手を引かれて歩いている私、幼い兄と公園で砂山を一生懸命作っている私、幼稚園のイモ掘り、小学校の運動会、誕生日、何気ない日常、みんながそこにいた。みんなが笑っていた。
「そうだ、庭にブランコがあったんだ」
小さな庭には父の作った小さなブランコがあった。幼い私は一人の時いつもそれに乗っていた―――。ただ一人、私はブランコに乗っていた―――
―――(お兄ちゃん・・)
我に返るとお兄ちゃんの声は消えていた。
(残酷だよ。残酷だよこんなの・・)
私の目から涙が流れ落ちた。
まださっきまで近くにいたお兄ちゃんの温もりと確かな存在の残像が私の中にあった。
(残酷だよ・・)
私の頬を温い涙が次々伝っていった。
涙はとめどなく流れ続けた。次々流れ落ちる涙の温もりの線を私はしっかりと感じていた。
―――流れ落ちる涙の感触、一瞬一瞬の動きが全て見えた。コンマ何ミリの動きの一瞬一瞬が全て分かった。その流れ落ちる涙の一粒一粒の塊が私の顎の先に溜まり―――、それが落ちた―――瞬間―――
―――私は溶けた。
私が―――私の意識の奥に―――溶けていく。それはどこまでもどこまでも―――ぐんぐんと私の本質へと入っていく。そしてその吸い込まれるような溶解は、今度はそれがどこまでもどこまでも弾けるように広がり、無限の膨張を始めた。
(あれ?私どこ?)
私という輪郭がだんだんと失われていく。私と言う境界線が溶け、曖昧になっていく。
「私?」
どこまでが私で、どこからが世界なのか・・・?それは空間だけではない。時系列でも―――崩れていった。全ての過去が私に繋がり、無限の未来が私になっていった。
何万年、何十万年、何百万年、何億年・・・、無限の時間が私だった。それでいて私は宇宙の空間全てを知っていた。しかもそれは時間も空間も超越していた。いつしか宇宙の存在そのものと私は同機し、完全完璧な存在と一体化していた。私が宇宙で宇宙が私だった。
私は私ではなかった。もう狭い意識、小さな肉体に押し込められた小さな私ではなかった。私は無限であり、永遠だった。
私は、世界は私と私じゃない世界の二つだと思っていた。でも、違った。世界は一つだった。
世界は一つだったんだ!
涙が止めどもなく溢れた。得も言われぬ感動が全身を包んでいた。
「全部が私なんだよ」
唯の言葉が浮かんだ。唯はこの事を知っていたんだ。
「唯・・」
ガタンッ
扉の開く音と共に強烈な光が差し込んだ。光の刺激にゆっくりと目を開けるとそこにサン・マンチュルの、あの陽気な人懐っこい笑顔がにこやかに立っていた。
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