第15話 愛という言葉の無い村
山岳地帯を十時間走って、車はやっと目的の村に着いた。
「神様ありがとう」
私はすでに星空になった空に向かって手を合わせた。自分が生きている事に心の底から感謝した。
「生きているって素晴らしい」
感動に似た生きている実感が私を包んだ。
―――着いた村は限りなく辺鄙な山村だった。
と、思って顔を上げると
「うわぁっ」
照らすような月明かりの下、緑の広がる広大な丘に、ピンク色に淡く輝く桜の花が咲き乱れていた。
「す、すごい」
なんてきれいなんだろう。この世のものとは思えない美しさがそこにはあった。私は呆然とその光景を見つめた。
「こんなに標高が高くて、寒いのに・・、どうして・・・」
桜並木は丘の向こうまで無限に延びていた。
「っというか、寒くない」
なぜか、日本の春のような陽気だった。
「なんだろう、なんか不思議と心地良い」
更に不思議な心地良さが心を満たしているのを感じた。
「愛トイウ言葉ノナイ村」
いつの間にか隣りに立っていたあの妙に陽気なじいさんが言った。
「愛と言う言葉の無い村?」
じいさんはただ頷いた。
「どういうこと?」
「ソノウチ分カルネ」
じいさんはやはり陽気にそう言って、不敵な笑みを残すと、再びおんぼろのバンに乗り込み、着いたばかりだというのにまた直ぐにもと来た道へと去って行った。
「・・・」
そのバンの後ろ姿を私はただ黙って見送った。
「愛と言う言葉の無い村・・」
「驚いたろう」
背後から声がして、私は振り返った。そこには体格の良い、きれいに日に焼けた浅黒い男性が立っていた。
「あっ、あなたは」
「そう、私は日本人だ」
「あなたが桜を・・」
「ふふふっ、そうだ」
その男性のがっしりとした上半身からは、立派な刺青が着ている白い薄地のタンクトップから思いっきりはみ出ていた。私はそれをまじまじと見つめた。
「はははっ、そう、私は元ヤクザ屋さんだ。はっはっはっ」
しかし、その男性は元ヤクザとは全く思えない、柔和な表情と陽気な雰囲気を醸していた。
「俺は佐伯龍二」
「私は二子石愛美です」
「お前、泊るところないだろ」
「はい」
「俺の家に泊ればいい」
そう言って佐伯さんは私の返事も待たず、早速歩き出していた。私は佐伯さんの後を追った。その背中には立派な観音菩薩が、薄地のタンクトップの下から浮かび上がっていた。
佐伯さんの木と石で出来たおっきな四角い家に入ると、若い現地人の奥さんとおそろいのピンク色の服を着た五人の女の子たちが迎えてくれた。
「五人とも女の子だ」
佐伯さんはそう言って笑った。五人のちっこい女の子たちは私を物珍しそうに取り囲んだ。実際珍しいのだろう。こんなところまで来る旅行者など皆無だろうし、実際、車に同乗していたのも、みんな現地の人ばかりだった。
「さっ、そこに座って」
多分、私とそう年の変わらないであろう若い奥さんが、畳らしきものが敷いてあるリビングの真ん中に置いてあるバカでかいちゃぶ台みたいな一枚板のテーブルを指さして言った。
「そこお父さんの席だよ」
テーブルの一角に私が座ると、五人の子供たちが一斉に言った。
「ここならいい?」
「うん、いいよ」
私が隣りの席を指さすとまた五人は元気いっぱい一斉に言った。
私が隣りの席に移ると、キャッキャッ、キャッキャッとしがみつかんばかりに我先にと、五人の子供たちは嬉しそうに私の体という体にまとわりついてきた。
「ふふふっ」
みんな、かわいいきれいな目をしていた。
「ほら」
「わっ、味噌汁」
佐伯さんの小指の無い左手で差し出されたのは、昔懐かしお味噌汁だった。
「こればっかりはね」
佐伯さんは笑顔で言った。私は女の子五人に囲まれながら、味噌と出汁の何とも言えない香りのする味噌汁を貪るように啜った。
「うまあ~い」
「大豆から、全部手作りだ」
「ほんとおいしい」
私は目玉が飛び出るんじゃないかというくらい目を見開いた。
「はははっ、そんなにうまいか」
若い奥さんと二人で、佐伯さんはうれしそうに笑った。
「さあ、これも」
「わあっ」
おにぎりだった。私は三角に握られた白く輝くお米の連なりにがっついた。
「うま~い」
使い古された言葉だが、日本人に生まれて心の底から良かったと思った。
「梅干しだぁ」
具は梅干しだった。
「すっぱ~い」
私の顔の全体が中央に寄った。
「でも、うっま~い」
「お前面白いな」
佐伯さんはくるくる表情の変わる私を見て、おもしろそうに笑った。
朝起きると、朝食の前に、私は村を少し歩いてみた。カティの村にいたら、いつの間にか早起きが身についてしまっていた。
少しもやのかかった村はどこか幻想的な雰囲気があった。
まだ薄暗い早朝だったが、すでにちらほらと村人たちが行き来していた。日本の人みたいに手拭いを頬かむりしている人もいる。佐伯さんの影響だろうか。
「なんかこの村の人、みんな幸せそうだな」
何があるわけでもないのに、妙に村人たちは幸せそうだった。それがなぜか遠目にも分かった。カティたちの村とも違う何か独特の穏やかでやさしい雰囲気が村全体に漂っていた。
「わあ」
村はずれまで来た時だった。その先は断崖絶壁だった。村は絶壁の上にあった。
「す、すごい」
どうやってこんなとこに、村を作ったのだろうか。私は霞がかった絶景を見下ろした。
「この村は特別な村だ」
いつの間にか隣りに佐伯さんが立っていた。
「特別な村・・?」
「この村に愛という言葉はない」
あのじいさんも言っていた。
「どういうことですか」
佐伯さんは、ニコニコと遠くに見える村人たちを眺めていた。
「ここでは愛が当たり前すぎるんだ」
「愛という言葉がいらない・・」
「そう」
「概念化する必要がないくらい愛が当たり前にある村・・」
「そういう村さ」
佐伯さんは私を見て微笑んだ。
「俺はこの村に魅せられてしまった」
「なんで佐伯さんはここに?」
「俺は敵を追っていた」
「敵?」
「俺の世話になった組長が殺された。俺の恩人だった。ろくでもない俺の親代わりになってくれた人だった。俺は三年、そいつを追いかけた」
「そしてこんな辺鄙な世界の片隅みたいなとこまで来ちまった」
佐伯さんはそこで自嘲気味に笑った。
「今考えると何かに導かれていたのかもしれない」
佐伯さんは崖の向こうのかすむヒマラヤの頂上を見つめた。
「・・・」
「ヤクザなんて、任侠映画みたいに義理も人情もありゃしない、露骨な暴力と縄張り争い、そして、剥き出しの人間の汚い欲望だけだ」
「組長が殺されても、結局、組の中じゃ空いたポジションの奪い合いを繰り返すばかりだった。俺は嫌だった。せめて、復讐ぐらいは絶対に果たしたかった。それがせめてもの、俺にとっての義理と仁義だった。それが俺にとってのヤクザだった」
「だが、ここに来てそれもどうでも良くなった」
佐伯さんは崖下の遥かに広がる、雄大な幽谷を見つめた。
「俺のくだらない一代記はお終いだ。さっ、飯だ飯。さっ、家に帰ろう」
佐伯さんは、明るくそういうと家の方へと歩いて行った。
私はもう一度、一人遠く広がるヒマラヤの幽谷を見つめた。
「私も、もしかしたら何かに導かれたのかもしれない・・」
なぜかその時、私もそんな風に感じた。
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