第14話 出発

「気をつけてね」

「うん」

「帰りにまた寄ってね」

「うん、絶対」

 何度も何度もそう言って、カティは不安そうに涙ぐんでいた。私の目にも涙が溢れて来た。

「これをあげる」

 カティが差し出したのは、いつも身につけている小さな鈴だった。

「これは魔除けの鈴。きっとメグを守ってくれるわ」

「ありがとう」

 思えば私はこの鈴の音に救われたんだった。

「これあげる」

 私は元少年の一億円をカティにあげた。これはこの人たちにこそふさわしい。これでティマも出稼ぎに行かなくて済むだろう。

「ところで・・・」

 更に麓の村まで行く車があるというので、隣村まで来たのだが、それらしい車も人も全く見えない。

「オッ嬢サン、ヒマラヤ行ク人カ?」

「えっ」

 怪しげな日本語に振り返ると、小柄なじいさんがニコニコと立っていた。

「そうですけど・・」

「ヤッパリネェ。アタリアタリ」

 じいさんは両手をピストルの形にして陽気に上下に動かしながら、ガハガハと一人笑った。なんか妙に陽気なじいさんだった。

「ところで車は?」

「ヒマラヤコレデ行クネ」

 じいさんがニコニコと指を指す方を見ると、そこにあったのは昭和初期のオート三輪を思わせるような錆びだらけの古びたバンだった。

「・・・」

 私とカティはしばしその古びたバンを見つめた。

「これ本当に走るのかな・・」 

 私がそう言ってもカティはその車を見つめたまま何も言わなかった。と言うか何も言えなかった。それ程にその車はボロボロだった。

「じゃ、じゃあ」

 不安を残しつつ、私はカティに手を振った。

「う、うん・・」

 カティも不安げに手を振り返した。

 私は後部座席のスライドドアを勢いよく開けた。それと同時にドアはその勢いのまま車体から外れて、グゥワングゥワンと地面に転がった。

「・・・」

「アア、ダメダメ。静カニ、静カニ」

 じいさんはそう叫ぶと、近くにいた大きな男と慌ててドアを持ち上げ、あれやこれやと再び車にはめ始めた。

「・・・」

 私とカティは顔を見合わせ、そして再びその古びたバンを呆然と見つめた。


 ―――結局ドアはつかなかった・・・。

「ノープロブレム。問題ゼンゼンナイネ。レッツゴー」

 いやいや、問題だらけだろ。

「っていうか、レッツゴーって、運転手は?」

「運転ワタシガスルネ」

「・・・」

 じいさんは私の不安などどこ吹く風で、軽快なステップで口笛交じりに運転席に乗り込んだ。

「じゃ、じゃあ」

 私はもう一度、カティに手を振った。

「う、うん・・、気を付けて・・」

 カティはその言葉があまり意味の無いことだということが分かっているようだった。

「レッツ、ゴ~」

 じいさんだけが妙にテンション高くそう叫ぶと、ドア無しで、その妙に陽気なじいさんと共に車はヒマラヤの更に麓の村に向け出発した。


 ゴゥオー、ゴゥオー

 私のすぐ足元の脇をものすごい音を立てながら地面が走っていく。乗り遅れたせいで私はドアの無い入口脇の席になっていた。しかも、三人掛けの椅子に五人が座っているせいで私のお尻は半分席に座っていなかった。

「・・・」

 私はただ何も考えられず、その走りゆく地面を見つめた。

 車は直ぐに村を抜け、山岳地帯に入った。じいさんは猛スピードで細い一本道を突き進んでいく。

「あのぉ、安全運転。安全運転で」

 私は運転席に叫んだ。車内は車が古いのと、ドアが無いせいで、凄まじい騒音状態だった。

「ダイジョウブ、ダイジョウブ。安全ハ全テニユウセンスルネ」

 トンチンカンな答えと共に車は更にスピードを増していった。私の足元の直ぐ脇は その断崖絶壁だった。私は顔から血の気が引き、自分の顔が青くなっていくのが分かった。 

 景色はもう、絶景を通り越して、もう何かを超越したような秘境の様相を呈していた。すぐ横の崖も山肌もその大きさと高さが半端なく、私の持っている全ての常識を超えていた。

「ゴクッ・・」

 私はとてつもないところにとてつもない車で来ていることを知った。


「コノアイダ、ココデバスガ落チテ、人ガタクサン死ンダネ」

 二時間くらい走った所でじいさんは急に私たちの方に振り返ると、崖下を指差して楽しそうに笑った。そこは崖の底があまりに深く霞んでいた。

「デモダイジョブ、問題ナイネ」

 じいさんは何が楽しいのか一人陽気だった。

「・・・」

 私のお尻の右半分は、もうしびれて感覚がなくなっていた。

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