第10話 幸せ
朝、私は突然目が覚めた。途中に起きることも、夢を見ることも全く無く、完全に爆睡していたらしい。昨日の夜からの時間が一瞬でどこかにぶっ飛んでいったみたいな感覚に、ベッドに上体を起こした私の意識はしばし痺れるように混乱していた。
「・・・」
窓の外の明るさだけが、朝だということを、そんな私に半ば強制的に教えてくれていた。
「昨日、カティに会って・・」
あれは幻だったのかと錯覚しそうになった時、私はふと昨日丸まるようにカティが寝転がった床を見た。その場所にその小さな体はなかった。
カティの部屋を出て、昨日晩御飯を食べた囲炉裏のある広間へと行く。しかし、家の人たちも、誰一人としてそこにはおらず、ガランとした空間が広がるばかりで誰もそこにはいなかった。
「・・みんなどこ行ったんだろう」
私は少し軋む木の扉を開け、外に出た。眩しい日の光が私の網膜に強烈に差し込んでくる。太陽は澄みきった真っ青な空に完全に昇りきっていた。
「わあっ」
光りに目が慣れ、徐々に像が結ばれた目の前の景色に、私は思わず声が漏れた。どこまでも透明な空気の向こうに、大きく波打つように湾曲した広大な大地の広がり、激しい白岩の造形の荒々しい羅列、それを覆うように走る緑の絨毯。人工的なまがまがしさの全くない、清々しい自然そのものがどこまでもどこまでも三百六十度果てしなく広がっていた。そして、その中心に、昨日は暗くて見えなかった雄大なヒマラヤ山脈が、すぐ目の前に大迫力で悠然と鎮座していた。
「なんて空気がきれいなんだろう」
空気に輝きがあるみたいにその質感が感動的だった。世界そのものの透明度が違って見えた。
「気持ち良い~い」
私は胸いっぱいに思いっきり澄んだ空気を吸い込んだ。圧倒的な清涼感に、私の全身が浄化されていくのを感じた。
「・・・」
改めて目の前の大自然を見つめる。言葉がなかった。私は何かに心を打ち抜かれたみたいに、茫然とその景色を見つめた。
「・・・」
ここは全くの別世界だった。今まで自分が生きて来た世界は、まるで仮想世界で作られた偽物みたいに感じた。
そんな雄大な自然の中に、小さくぽつぽつと、家や畑が点在している。こんなところにも人の営みがある。それはとても不思議なことのように感じた。でもそれが人間なのかもしれない。それが自然な人間の本当の姿なのかもしれなかった。
その時、ふと周辺の畑を見ると。ちらほらと人の姿が見える。
「みんな畑仕事してるんだ」
みんな朝早くから起きて、畑仕事をしているのだろう。
「寝ていたのは私だけか・・」
なんだかちょっと自分のがっかりした。
「おはよう」
「あ、おはよう」
見るとカティだった。
「水汲んで来たよ」
「水?」
見るとカティの手には、その小さな体にはかなり不釣り合いに大きな木でできた桶が握られていた。川は見えないけど、井戸かなんかあるんだ。私は辺りを見回した。
「ここから二時間くらい歩くと川があるの」
「二時間?」
私はカティのかわいい顔を、まじまじと見つめた。
「そう」
「そこまで歩いて行って来たの?」
「うん、さ、座って、足洗ってあげる。疲れているでしょう?」
「うん、って・・」
こともなげに答えるカティに私は少し戸惑った。
「さ、座って」
そんなカティは疲れも見せず、テキパキと大きなタライに水を満たすと、私を促した。
「え?う、うん」
私はうなされるままに用意されていた小さな椅子に座り自分の足をそのタライの水に浸けた。それと同時に、まるでそれをするのが当たり前なことみたいにカティはその小さなかわいい手で私の足をやさしく揉むように洗い始めた。
「朝、足を洗うと一日良い事があるのよ」
カティはそう言って微笑んだ。その微笑みには何とも言えない純度の高い温かなやさしさがあった。
「・・・」
カティはその小さな体で一つ一つ丁寧に一生懸命私の足を洗ってくれる。
「自分だって疲れているだろうに・・、しかも、そんな貴重な水で・・・」
私は感動で涙が出そうになっていた。自分の親でもここまでしてくれるだろうか。
「ありがと、カティ」
「ううん」
カティは恥ずかしそうに小さく微笑んだ。なんて無垢でやさしい心なのだろう。私はカティのその純粋なやさしさに、熱く胸を打たれた。
「名前は何て言うの?」
カティがその小さな顔を上げた。
「あっ、私愛美」
「メグミ?」
「そう、メグって呼んで」
「うん、メグはここに何しに来たの?」
直球ストレート、真っ向勝負な質問だった。だが、そう訊かれても、そもそもなぜ自分がこんな偏狭の地にまで来て、ここにいるのか、当の本人が分からない。
「う~ん」
私は困ってしまった。
「なんかよく分からないけど・・・」
「分からない?」
カティは小首を傾げた。
「うん、何かがある気がするんだけど、その何かが分からないんだ」
カティはその純真そのものといった目で、不思議そうに私を見つめていた。それはそうだろう。ここにはモラトリアムなんて言葉は絶対ないに違いない。
その時、どこからともなく、なんともゆったりとした歌声が風と共に流れてきた。それに連動してあちこちから、その歌声に重なり合わせるように歌声が響きだす。
「みんなが歌っているのよ」
カティが言った。私が畑の方を見ると、畑仕事をしている村人たちが歌っているのが見えた。この土地の歌なのだろう。どこか自然の音がそのままメロディーになったような、素朴で不思議に心地よい歌だった。
「みんなで歌いながら仕事をするの」
みんなにこにこと歌に合わせて体を踊るように動かして畑仕事をしている。それは労働をしているというより、何かの遊びやお祭りのように見えた。
「みんな仲が良いんだね」
「うん、とっても仲が良いの」
カティは嬉しそうに言った。
ゆったりとした歌声が、澄みきった雄大な自然の中に流れ溶け込んでいく。こんな生き方もあるのか。なんだかここだけ全く時間が別次元でゆったりと温かく流れているみたいだった。
その夜は、村人全員が集まっての、私の大歓迎会を開いてくれた。
揚げパンに、自家製酒、それぞれの家で作った伝統料理がずらりと広場に設置された巨大な長テーブルに並んだ。
「おおっ」
そしてメインディッシュは、広場の中央の焚火の上に堂々と乗っかった牛の丸焼きだった。
「す、すごい」
小ぶりの牛ではあったが、やはり丸焼きは迫力が違った。
「うま~い」
手渡された肉の塊りに私はかぶりつくと私は叫んだ。ただ塩で味付けされているだけなのだが、濃厚な肉汁とうま味が口いっぱいに広がり滅茶苦茶うまい。
見ると、周囲の小さな子どもたちも、不器用だがうまそうに肉の塊にかぶりついている。
「お肉を食べるのは、一年に一回か二回のお祭りの時か、特別な何かがあった時だけなの」
そう言って私を見上げるカティの顔も、自然と肉のおいしさに頬がほころんでいる。
「ごちそうなんだね」
「うん」
それを私みたいな氏素性も分からない人間のために、大切な家畜の牛をつぶしてくれたのだ。
「じゃあ、昨日のシチューも・・」
「あれは一昨日ユキヒョウに襲われたヤクの肉よ」
「そんな貴重な肉を私は・・・、ほんとごめんね」
カティは微笑んでいたが、私は改めて自分の食い意地の汚さにがっかりした。
「二日連続でお肉が食べれるなんてメグは本当に運が良い」
カティはそう言って笑った。カティのそんなやさしい笑顔を見ていると余計自分の食い意地の汚さにがっかりした。
「あっ、ちょっと待って」
「どうしたの」
「蚊が止まってる。じっとしてて」
カティの左腕に蚊が止まり今まさに刺さんとしているところだった。私は右手をゆっくりと上げ、カティに近づいた。
「待って」
「えっ」
「いいの」
「えっ、いい?」
「うん」
そう言って、カティは微笑んだ。
「?」
「殺生はよくないわ」
「えっ」
「誰かの生まれ変わりかもしれないでしょう」
「生まれ変わり?」
「これは私の亡くなったおじいさんかもしれない」
そう言って、カティは自分の左腕にとまり、まさに今カティの血を吸わんとしている蚊を微笑みながら見つめた。
「血のお布施よ」
カティはそう言って微笑んだ。
「チベット仏教ではそう考えるの」
「チベット仏教・・」
「輪廻よ」
そう言えばガンジス河で出会ったおじいさんもそんな事を言っていた気がする。
「さあ、どんどん食べなさい」
その時、肉を切り分けてくれているおじさんが、私のお皿に山盛りの肉を乗せてくれた。肉は熱々の湯気をほわほわと上げながら、肉汁が染み出てやはりなんともうまそうだ。
「ん?・・、とういうことは・・、牛・・」
私は焚火の上でこんがりと良い色に焼けている牛を見つめた。
「大丈夫。たまたま、崖から落ちたんだ」
横から、肉を切り分けてくれたおじさんがニコニコとその芯からやさしそうな顔で私を見つめた。
「たまたま・・」
「そう、たまたま、だからしょうがない」
おじさんは笑った。
「たまたまよ」
カティも笑った。
「たまたま・・、か」
たまたま、私の着いた次の日に、歓迎会をやるその日に、たまたま、都合よく崖から家畜が落ちた。そんな事あるはずがない。
「ははははっ」
意味が分かって私も笑った。意味の分かった私を見てカティも笑った。そして村の人たちも笑った。
「たまたま、たまたま」
なんとも大らかでのんびりとした、ここの人たちの考え方に私はなんだか、全身の凝り固まった緊張が解けていく思いがした。
その時、焚火の周りに、ほどよく酔った人たちが次々と集まり歌を歌い始めた。そして踊り始めた。ちっちゃな子供も女性も老人もそれに呼応するように次々と参加していく。
焚火の周りはいつしか歌い踊る村人でいっぱいになった。素朴で、穏やかな歌の中にゆったりと体を動かすような踊り。そこに流れるゆったりとした時間までがその中に溶けていくようだった。
「なんてやさしい人たちなのだろう」
村人たちの笑顔、仕草、言葉、雰囲気、村人たちの全てからそれが伝わって来た。
「さあ」
一人の陽気なおばさんが私たちを誘った。
カティは少し恥ずかしそうだったが、私が促すと一緒に焚火の輪に加わった。
みんなの踊る様子を見ながら見様見真似で踊る。足を前後に軽く動かし、リズムをとりながら体を揺らす。私の前では同じように少しはにかみながらカティも踊った。
踊っていると自然と笑みが漏れた。不思議な楽しさが胸の奥の方から沸き上がってくる。カティと目が合った。カティも笑っていた。隣りの人も笑っていた。その隣の人も。村人全員が笑っていた。
幸せはこんなにも身近に、直ぐ近くにあるんだ。私はそう強く感じた。
村の生活は、農業と牧畜をしながらのほぼ自給自足。電気もガスも無い。お金だって殆ど持っていない。日本の生活水準からしたら非常に貧しいものだった。しかし、ここには日本にはない何かがあった。
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