第8話 遭難

「この道でいいのかなぁ」

 村を離れてから、人家はおろか人の気配さえ完全になくなっていた。ただ茫漠とした荒野と砂利道がひたすら続いている。なんか自分はとんでもないとこに来てしまっている気がして、私は不安に苛まれる。

「村の人は、ちょっと歩いて着くとか言ってたのになぁ」

 どう考えてもそのちょっとは、はるか昔に通り過ぎた気がする。

「水もっと入れとけばよかったな」

 残り少ないペットボトルを見て思った。

「あっ」

 その時、道の向こうから、一人の老婆が歩いて来た。

「あのすみません。この先の麓の村まで行きたいんですけど」

 私は、すがる思いで駆け寄った。

「あっちだ」

「えっ」

「すぐに着く」

 しかし、そのおばあさんはかんたんに山の方を指差しただけで、また私と反対方向へその曲がった腰とは裏腹に、すごい速さでさっさと歩いて行ってしまった。

「あっちって言っても・・」

 見えるのはやはり広大な荒野に続くじゃり道とその向こうの遠い山だけだった。

「ふぅ~」

 仕方がない。私は大きく一つ息を吐くと、どこまでも続く一本道を再び歩き始めた。

「おばあさんが歩いてるんだ。大丈夫だ」

 そう自分を励ますが、不安はぬぐえない。やはり、歩いても歩いてもまったく景色が変わらない。このまま進んで行っていいのだろうか。といってももう引き返せないところまで来ている。

「行くしかない」

 私は終わりなき砂利道をただひたすら歩いた。

 日が傾き始めた。なんか本気でやばい気がした。焦って歩くが、やはり、まったく人家も村も見えてこない。その間も日はどんどん傾いて行く。それにつれてどんどん気温が下がって来る。

「うわっ」

 風まで出て来た。

「チクショー、なんだよこの寒暖差」

 おまけに右膝まで痛くなってきた。

 遂に日が完全に暮れた。辺りは完璧な暗闇になった。足元さえほとんど見えない。気温は容赦なくガンガン下がって来る。

 私はさらに速度を速め、必死で歩いたが、やはり、村などまったく見えない。というか見える気配すらない。

「すぐ着くって言ったのにぃ」

 私はちょっとキレ気味に一人呟く。村なんか全然つく気配はない。道は間違えようもなく一本道だった。

「やばい」

 本当にこれはやばいと感じた。風は強くなるばかりだった。

「さ、寒い」

 疲れと空腹で寒さが体の芯まで染みてきた。私が着ているのはホテルのおばさんにもらったあの謎の民族衣装だけだった。

「腹減った」

 カロリー不足で体に力が入らなくなってきた。痺れに似た脱力感が全身を襲う。お弁当にともらったパンはもうとっくの昔に食べつくしていた。強風と化した風が容赦なく体温を奪っていく。

 標高も相当高くなっているのだろう、空気も薄く、なんだか意識も朦朧とし、妙な倦怠感が全身を支配している。

 私は堪らず道脇の崖の岩陰に入り、寒さを凌ごうとうずくまった。だが、ほとんど意味はなかった。体は容赦なくガンガン冷えてくる。尋常じゃない震えが全身を何かそんなことのための機械みたいに激しく揺さぶった。

「これはもしや、遭難なんじゃないのか」

 私は、今のこの状況のやばさに気づき始める。それと共に死の恐怖が全身を這い上がって来る。

「死ぬ」

 真剣にそう思った。

「私はここで死ぬのか・・」

 夜空を見上げた。相変わらず夜空はその埋め尽くさんばかりに瞬く星々によって輝いていた。

 今までの短い私の人生が思い出された。こんな世界の果てで自分が死ぬなんてまったく想像もしていなかった。ちょっと前まで私は普通の日本の女子高生だったのに・・、そんな自分が遠い昔のような気がした。

 笑顔で学校生活を送る同級生の顔が浮かぶ。

「みんな楽しくやってんだろうな」

 何事もなく平和で、物質的に豊かな何不自由のない日本のあの日常の毎日を送っている同級生たちの姿が浮かぶ。

「うううっ」

 そんなことを考えている間にも、気温は容赦なくどんどん下がって来る。そして、なんだか眠くなってきた。

「これはもしや寝たら死ぬというあれか」

 そう呟く私の口は完全に歯の根も合わない。

「寝ちゃいかん。寝ちゃいかん」

 しかし、容赦なく強烈な眠気が襲ってくる。

 戦死した日本兵は「お母さ~ん」と叫んで死んでいった。アメリカ兵は「ママ~」と叫んで死んでいった。

「お母さ~ん」

 堪らない心細さと、寂しさが胸を突き上げる。

「お父さ~ん」

 あんな人でもやはり、今は会いたかった。

「眠い。とてつもなく眠い」

コクリ、コクリ・・、私の意志とは関係なく意識が遠のいていく。コクリ、コクリ・・、

「あっ」

 目の前に、もやっとした幼い頃の兄が立っていた。兄はやさしく微笑んでいた。

「おにいちゃ~ん」

 私はありったけの声で呼びかけた。

 うちには古いテープレコーダーがあった。幼い頃、兄と二人でそれに自分たちの歌った歌を録音して遊んでいた。再生したテープから流れる自分たちの声がなぜか面白くて、二人で笑い転げた。お腹が痛くてはちきれそうになるほど笑ってもまだおかしくて、本当に死ぬかと思うほど二人で笑って笑って笑いまくった。

「お兄ちゃん、覚えてる?」

 今思うと、あれは一体何がそんなにおかしかったのだろうか。

「ふふふふっ、何があんなに面白かったんだろうね。全然分かんない」

 でも、あの時は本当に死ぬかと思うほど笑った。

「もういいか」

 なんかもういいような気がした。

「もう十分笑ったしね」

 幼い兄はずっと私の前にやさしく立ち続けていた。

「私を迎えに来てくれたの?」

 私の中から、今まで感じていた心細さも、寂しさも、不安も恐怖もすべて消えていた。幼い頃、兄の隣りで感じていた安心感が私を包んだ。

「もういいや」

 私は呟く。

「ここで死ぬのも悪くない」

 とても気持ちのよい眠りが私を包んでいく・・。

「もういい・・」

 本当にもういいと思った。このまま、このまま眠りたかった。ただ眠りたかった。すべての苦しみを忘れて、ただ眠りたかった。

「もう、疲れたよ。お兄ちゃん・・」

 私は眠りの中に落ちていった――

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