第7話 戦場
「人間の腸が壁に貼りついてた」
唐突に、ショーマンは何でもないことのように言った。
「爆弾で吹っ飛んだんだろう。それが干からびて、バカでかい夕日に照らされてキラキラ輝いてるんだ。それがその日の一日の終わりの日常の光景だった」
ショーマンは私を見た。
「すぐに気づいた。何かがおかしいって」
そこでショーマンはウイスキーを一気にあおった。
「あるよく晴れた日の気持ちのよい午前中だった。昨日の戦闘が嘘みたいに穏やかで平和な日だった。でも、木にはちぎれた手とか足がぶら下がってる。腸の形がはっきり見えるくらいの内臓が垂れ下がっている。首や胴体がその辺に転がっている」
シューマンは再び私を見た。
「そして、若い兵士たちが、その辺のゴミを集めるみたいに、その吹っ飛んだ仲間の内臓を集めてた。鼻歌交じりに」
ショーマンは穏やかな目で私を見ていた。
「別に悪気があるわけじゃない。ただそういう陽気なんだ。本当に鼻歌でも歌いたくなるくらい本当に気持ちのいい陽気なんだ。でも、集めているのは人間の内臓なんだ」
ショーマンはやさしく微笑んだ。そして空になったグラスにもう一度ウイスキーを注いだ。
「戦争なんて言葉になんかできっこない。戦争を語り継ぐなんて言うけどそんなことは出来っこない。戦争は言葉にした時点で本当の戦争じゃなくなっちまうんだ。それが戦争だ」
そう語るショーマンはやさしい目をしていた。
「兵士たちと一緒に行軍していた時だった。道端に人間の頭が転がってた。その辺にあるちょっとデカイ石みたいに。それを一人の兵士が「コン」って蹴るんだ。「コン」って。なんか気晴らしに暇つぶしにその辺の石を学校帰りに子どもが蹴るみたいに。「コン」って。悪意があるわけじゃない。意味があるわけじゃない。ただ蹴るんだ。「コン」って。そしてその首は、石ころみたいに転がっていく。何の意味も価値もないその辺の石ころみたいになんの感動もなく転がっていくんだ」
「・・・」
「でも、それは人間の頭なんだ」
ショーマンは私を見た。
「それが戦争だった」
そこでショーマンは小さくため息をついた。
「英雄なんかいなかった。どこにも」
ショーマンはその熊みたいな大きな顔で小さく苦笑した。外は少し風が出てきたみたいだった。建つけの悪い窓がカタカタと小さく鳴った。
「ある日、民家に入った。ドアを開けると幼い女の子が倒れていた。色の褪せたピンクに近い赤いトレーナーを着た女の子だった。トレーナーと同じ色のヘアバンドをして髪を後ろで束ねていた。それがその子なりのオシャレだったのかもしれない。目の大きなかわいい女の子だった」
ショーマンは一つ一つ区切るようにゆっくりと話した。
「その子は撃たれていた。ちょっと前にそこで戦闘のあった村だった。その時、流れ弾かなんかが当たったんだろう。でもまだ生きていた。弱いとても弱い息をしていた。小さな胸が小動物のそれみたいに小さく弱く微かに動いていた。でも生きていた。その子は生きていた」
ショーマンは静かに私を見た。小屋の中には相変わらず温かく穏やかな時間が流れていた。
「その子はとても怯えていた。とても不安そうだった。そのとても怯えた目で俺をじっと見ていた。倒れたまま目だけが俺を見ていた」
「・・・」
「俺はカメラを向けた。その目は黙って俺を見続けていた。俺もレンズ越しにその目を見続けた。その目の奥に少女の見ている死への恐怖が見えた。俺はシャッターを推すべきではないと思った。だが、俺はシャッターを押していた」
ショーマンは窓の外を見た。
「その後、すぐにその子は死んだ。ふっと、ロウソクの小さな火が消えるみたいに――。かすかな命だった」
そして、ショーマンはしばらく黙った。
「なぜかその時俺は猛烈に腹が立った。何に腹が立ったのかは分からない。それまで腐るほど死体は見てきた。幼い子どもたちの死体もだ。そんなものは山ほど見た。戦争じゃそんなものは珍しくもなんともない。そんなのはその辺にいくらだってゴロゴロしていた。兵士も民間人も老人も女も子どもも、ゴミみたいに死んでた。何の価値も意味もなくただ死んで転がってた」
「・・・」
私はただ黙ってショーマンの話を聞いていた。
「だがな、あの子の目は怯えていた。死ぬことに怯えていた。たった一人で死ぬことに怯えていた。たった一人で怯えていたんだ」
ショーマンは震えていた。
「俺は国に帰ろうと思った。堪らなく家族に会いたかった」
うつむき加減でショーマンは絞り出すように言った。
「そして俺は国に帰った。だが、俺は生きるってことが分からなくなった。生きているってことがなんなのか分からなくなっちまった。まったく分からなくなったんだ。今までそんなことは意識すらせず、当たり前な感覚として、空気みたいにその辺にあった」
ショーマンはそう言って、苦しそうにウイスキーの入ったグラスを握りしめた。風は少し強くなっていた。時々、窓の外でゴーッという音が鳴った。
「本当の戦争は、本当の戦争は・・」
ショーマンの口から呻くように言葉が漏れた。グラスを握る手はグラスのきしむ音が聞こえそうなほど力が入っていた。
「クソだ。戦争なんてクソなんだよ。とんでもなくクソなんだ」
ショーマンは突然興奮し叫んだ。その勢いで持っていたグラスのウイスキーが辺りに飛び散った。適当に部屋の片隅で遊んでいた子どもたちが何事かとショーマンを見上げた。
「本当にクソなんだ」
だが、ショーマンはすぐに落ち着きを取り戻し、今度は静かに言った。その目には光るものがあった。
「戦場に若い兵士たちが補充されてくる。彼らはみな戦争を知らない。だから、みんなきれいな目をしている。多分、俺もその時はそうだったんだろう。だが、戦場を経験していくうちにその目が変わっていく。最初は怯え、そして、興奮し、そして、残忍に攻撃的になっていく。敵を見、仲間が殺され、自分が殺されそうになり、混乱と疲労の中で、人間としての何かが壊れていくんだ」
「・・・」
「戦争に実際行ったことのない奴の吐く戦争論なんて反吐が出る。本当に吐き気がする。あいつらは何も分かっていない。ほんとうの戦争をこれっぽっちも分かっていない。人が死ぬってことがどういうことか――、まったく分かっていないんだ」
「安全な場所で、うまいもん食って肥え太ってる奴らに、泥水の中で、まだ治らない傷口を抱えながら三日三晩ただひたすらじっとしてなきゃならない兵隊の感覚なんかこれっぽっちも分からりゃしない」
ショーマンは思いを絞り出すように言った。
「今でも血の匂いがするんだ。俺のこの鼻の前のこの辺りには生々しい人間の血と爆弾の匂いがいつも漂っている。何を嗅いでも血と爆弾の混ざったような匂いがするんだ」
ショーマンは、鼻の穴の前辺りで手をしきりと動かす。
「・・・」
ショーマンは俯き、グラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。そして空になったグラスを脇にあった小さなテーブルに静かに置いた。
「俺は人の死を見過ぎた。死を感じ過ぎた。だから俺は命を撮りたかった。生きることを撮りたかった」
「生きること・・」
「そうだ。生きているってことそのものを撮りたかった。生きているっていうこう・・」
ショーマンは両手を使ってジェスチャーで表現しようとしたが、うまく表現できないみたいだった。
「そして、俺は世界中を旅してまわった。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、南米、北極にも行った。南極にも。砂漠にも行ったし、アマゾンの奥地にも行った。世界最高峰の山にも登ったし、海にも潜った。そして、その果てで、俺はここでビッグベアに出会った」
ショーマンはうれしそうに目を思いっきり見開いて子どもみたいに私を見た。
「あいつは生きている。本当に生きているんだ」
ショーマンの目は輝いていた。
「あいつは最高だ」
「最高なんだ」
「あいつの目だ。あいつの目・・、深い、深い何かを生き延びた、淀んで濁ったあいつの目は、生きていることそのものだった。あいつの目を見た瞬間、俺はゾクゾクした。遠くからでも分かるあいつの吐く臭い息を嗅いだ時、生のあいつを感じた。その時、これだって思ったんだ。理屈じゃない。これだって、一瞬で分かったんだ。俺が求めていたものがこれだって、これなんだって分かったんだ」
興奮して語るショーマンは私の存在も忘れて、その向こうのビッグベアを見ているようだった。
「ビッグベア、あいつは生きている。まぎれもなく生きている。俺はあいつとさしで向き合ってあいつを撮るんだ。命がけだ。小屋に隠れたりはしない。銃も持たない。生きるか死ぬか。対等な立場であいつと生でぶつかり合って、そして、俺はあいつを撮る。いや、撮ってやるんだ」
そう言ったショーマンの希望と喜びに満ちた目には、何か狂気に似たゾクッとするものがあった。
「ここでの日々は、生きている実感なんてそんな生やさしいもんじゃない、内臓の奥底から湧き出す情熱が、沸騰するような黄金の日々だった」
ショーマンは興奮気味に言った。
「・・・」
私にはその感覚は分からなかったが、ショーマンがとてつもない何かを感じてることはビシビシと伝わって来た。そして、そこに、私の答えもあるような気がした。
「俺はまたビッグベアを撮りに行ってくる。今度こそビッグベアを、ビッグベアそのものを撮ってやるんだ」
次の日、そう意気込んでショーマンはまた山奥へ一人旅立って行った。
「・・・」
去り際に残したあの人懐っこい笑顔が印象的だった。
ショーマンが出かけてからまだいくらも日が過ぎていないある日の午後だった。私は一人ショーマンの家であのロッキングチェアに座り暖炉の前で心地よく揺れていた。小屋は勝手に使っていいとショーマンに言われていた。鍵もなかった。この村の人たちはみんないい人たちばかりだったし、泥棒も存在しなかった。
「誰かがビッグベアにやられている」
村の猟師が慌てて村に帰って来ると、そう言いながら家々を回った。
「あれは絶対ビッグベアだ」
猟師は興奮していた。
村の男たち総出で、現場まで行くことになった。
「私も行っていいですか」
村人たちは顔を見合わせていたが、私の真剣な表情に折れた。
「・・・」
ショーマンは死んでいた。雪の中に血と肉片になって。その中にあの特徴的な金髪があった。それがショーマンなのだとはっきり示していた。
「ビッグベアだ」
村の人たちは口々に言った。その声の中には恐怖と畏敬の念が籠っていた。
死んだショーマンの手に最後までしっかりと握られていたカメラを私は拾い上げ手に取った。まだ生きていた小さな液晶画面のスイッチを入れる。画像をめくっていくと、そこには迫り来るビッグベアの姿が写っていた。
すべての生命を飲み込んでしまうようなその獰猛な赤い目、こちらまで匂ってきそうな涎でべとべとの剥き出された血の色をした口。その巨体から立ち上る圧倒的な生きるということの狂暴さ。
「やったんだね」
涙が流れた。けど、悲しさは感じなかった。ショーマンは生きた。最後に彼は堪らなく生きた。そう感じた。
ページをめくっていくと、暖炉の前で私と二人で写った写真が出てきた。写真の中の二人は笑っていた。
「ねえ、おじちゃん死んじゃったの」
村に帰ると子どもたちが私のズボンを引っ張った。
「ううん」
私は首を横に振った。ショーマンは今も生きているようなそんな気がした。確かに生きているそんな感じがした。生きていた時よりも生きている――。確かに私はそう感じた。
「もっと奥に行ったところにも村があるわ」
ショーマンの葬式が終わり、少し落ち着いた頃だった。何気ない会話の中で村長が言った。
クマリは、ヒマラヤの上の方を指差していた。
「よしっ、行こう」
私は、さらなる旅への出発を決めた。
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