第4話 祈り

 まず立つ。そして頭、胸の前で手を合わせ二回祈る。そして地面にダイブするかのように豪快に地べたに手足を伸ばし額を地面につけ全身で祈る。そして、立ち上がり、数歩歩き、再び立ち、最初の祈りに戻る。これをひたすら繰り返し進んでいく。

 小さな女の子たちが私の両脇につき、手取り足取りしっかりと指導とアドバイスをしてくれる。しかし、若干膀胱が炎症気味の体で必死にまねするが、やり慣れないというか、多分普通に生きていたら絶対しないであろう動きを繰り返すこの動きは、運動神経がどうとか依然にこれがなかなか体に馴染むまでに時間が掛かる。

「ズルはだめよ」

 昨日私の隣りに座っていた小さい方の少女ティンが鋭く言った。

「うん」

 早く先に進みたいあまり、ついつい歩く歩幅と歩数が大きくなる。それを、ティン見逃さなかった。

「しっかりとお祈りをして進むのよ」

 昨日ティンの隣りに座っていた大きい方の少女サンディが言った。

「うん」

 分かってはいるのだが、油断するとどんどん置いて行かれるし、焦りも相まってどうしてもいい加減になってしまう。

 ラバ馬車のじいさんはみんなと一緒に朝食を食べると、私を置いてさっさと行ってしまった。

「やっぱり、一緒に行けばよかったか・・」

 始めてからまだほとんど進んでいないのに、早くも後悔の念が頭をよぎる。

「しかし、進まんなぁ~」

 遅いとか遅くないとかいうレベルの話しではなかった。

「進んでいるという感覚がまったくない」

 これは見た目以上にハードだった。心身共に――。

「これが三年だもんなぁ・・」

 私は広大に広がる今日も晴れ渡る青空に向けて呟く。その三年が永遠の時間にも思えてくる。

 しかし、両隣りでは、私よりも小さなティンとサンディが一生懸命真剣に大地に祈りを捧げ、健気に進んでいく。

「これは思った以上に過酷だぜ」

 私は果てしなく伸びる遥か彼方の道の先を見つめた。そこだって、今日中に辿り着けるかどうか分からない。 

「・・・」

 周囲を見渡せば、相変わらずどこまでもどこまでも大自然は、これでもかこれでもかと広がっている。この広大な大自然を前に私という存在は圧倒的にどうしようもなく無力でちっぽけだった。

「・・・」

 世界は果てしなく広大だった・・。

 それでも、だんだん同じ動作を繰り返していると、だんだんコツのようなものを掴みだし、そして、なんだかランナーズハイのような、五体投地ハイのような心境になってきて妙に楽しくなってきた。

「よ~し、いったるぜぇ~」

 妙なテンションで私は大地にダイブする。妙な高揚感が私を突き上げる。

「これが祈りの効用なのか」

 なんとなく、祈りというものが分かってきたような気がした。多分、本質とは全然ズレていると思うのだが・・。

「ところで祈るって、みんないったい何を祈っているの」

 ふと私は気になった。

「すべての生命の幸せを祈るのよ」

 ティンが言った。

「えっ」

「生きとし生けるものすべてが幸せでありますようにって祈りながら進むの」

 私はてっきり病気が治りますようにとか、何か夢が叶いますようにとかそういった類のものを想像していた。

「自分の幸せは願わないの」

「みんなが幸せになったら、ほっといたって私も幸せになれるわ」

 ティンはその幼い顔でこともなげに言った。

「みんなが幸せにならなければ自分も幸せになれないわ」

 サンディが言った。

「う~ん」

 なんて大きな視点で世界を見ているのだろう。私は感嘆せずにはいられなかった。

「お姉さんの幸せも祈るわ」

 少女たちはそう言って私に微笑んだ。

「ありがとう」

 私の中にほんのりとした心地よい温かさが湧き上がる。

「私も祈るわ」

 私もすべての生命の幸せを祈ってみた。隣りのティンとサンディの少女の幸せを祈ってみた。他の仲間の幸せを祈ってみた。今まで旅で出会った人たちの幸せを祈ってみた。私がこの度ですれ違った見知らぬ人たちの幸せを祈ってみた。この世界に生きる、生きとし生けるものすべての幸せを祈ってみた。祈っていると、なんだか不思議と自分の心にもやさしさが満ちて来るのを感じた。それはとても温かで心地のよいものだった。だが、その時だった。

「うっ」

 私は心の奥底から突き上げる衝撃を感じた。それはどこか鈍い、とても嫌な、とてもとても嫌な感覚だった。

「どうしたの?」

 ティンが私を仰ぎ見た。

「・・・」

 私の頭の中に、あの顔が浮かんだ。元少年の顔・・。

「・・・」

 私は呆然とその場に固まる。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」

 嫌な、とても嫌ななんとも言えないどろどろとした暗い感情が私の心を一瞬で暗く覆って締めつけた。私の中の温かな気持ちはそこであっという間にかき消えた。

 ティンが何かを察したのか、私の顔を心配そうに見上げていた。

「大丈夫?」

「あの・・」

「何?」

「嫌いな人はどうするの?」

 私はティンに訊ねた。生きとし生けるものと言えば、嫌いな人間、憎むべき人間の幸せも祈ることになる。

「嫌いな人の幸せも祈るのよ」

「えっ」

 ティンはこともなげに言った。

「どんな人の幸せも祈るの。それが、たとえ自分のことを嫌っている人間でも」

「・・・」

 なんの迷いもない、真っすぐな答えだった。私はその濁りのない純真さに圧倒される。それは空は青いとか、海は広いとかいったたぐいの当たり前の話と同列の物言いだった。

 日が暮れかけようとする夕方、早朝から続いていた私たちのゆっくり過ぎる歩みはとまった。この日、丸一日へとへとになって、進んだのがわずか三キロほどだった。

 疲れた体であるにもかかわらず、みんなでまたするするとテントの準備と夕食が出来ていく。今度は私も手伝った。みんな本当によく働く。小さい子たちまで常に大人たちを手伝い何か仕事をしている。

 昨日同様、みんなで焚火を囲みながら夕食を食べる。辺りはもう完全な闇だった。バター茶が上手かった。疲れた体に染み入っていく。パンも最高にうまい。みんな黙々と食べる。みんな決して口数の多い人たちではないけれど、どこか静かなやさしさに溢れ、一緒にいると不思議と心地よかった。

 夕食のパンをバター茶で流し込みながら、一日を振り返り、このことの繰り返しを後何回繰り返すのだろうと思いながら、また天上を埋め尽くす星々を首一杯に仰ぎ眺めた。

 星は瞬き、風が吹き、太陽が照らす。時には雨も降るだろう。冬には雪も降るだろう。そのことがひたすら気が遠くなるほど繰り返し繰り返され、そしてその先に、その先の祈りの先に彼ら彼女らの求める何かが無かったとしても、この脈々と続いてきた悠久の大自然の中で人間のちっぽけな祈りと行動がそれそのものとしてそれはそれとしてそうあって、それはそれでやはりそれでいいのではないか、なんだかそんな気がした。

 人々のために祈りながら、この広大の世界を旅する。実はそれはなんだかとっても幸せで贅沢な事なのかもしれない。そんなことをふと私は思った。

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