第3話 時間

 私はもうバスはこりごりだった。だから、てくてくと、のどかな平原の広がる一本道を私は一人歩いた。クマリの指さす方向へと、私はまっすぐただひたすら歩いた。

 やっぱり、私には徒歩が合っている。のんびりと大自然の中を歩くのは気持ちよかった。

 荷車に山のように干し草を積んだちっこいラバが引っ張る馬車が、私をやはりのんびりと追い越して行く。

「乗ってくかい?」

 真っ黒に日焼けしきった、しわしわのおじいさんがやさしく私に言った。

「うん」

 私は馬車の荷台の片隅にちょこんと干し草を背に乗っかった。

 少し寒いがのどかな時間が流れる。コトコトと木製の車輪の醸し出す振動が心地よかった。日本にいたら絶対に味わえない時間だった。

 山、空、谷、平原、見える景色すべてが、日本とはその規模が違った。見えるもの、見える世界、すべてが規格外に果てしなく広大だった。

「ああ~、気持ちいい」

 私は干し草に大きくもたれ、空を見つめながら大きく伸びをした。大きな真っ白い綿雲が広大な空を流れていく。空気はどこまでも澄み、呼吸をするたびに全身の奥深く細胞の一つ一つが浄化されていくようだった。

「・・・」

 しかし、その世界はあまりに広大でのんびり過ぎた。

「いつになったら着くんだ・・?」

 馬車に乗ってから、半日が過ぎ去った頃、私はこの行けども行けどもほとんど変わらない景色に不安を感じ始めてきた。しかし、それでも相変わらず道は果てしなく伸び、その果てしなく続く同じ景色をラバは果てしなくゆっくりと歩いてゆく。

「次の村にはいつ頃着くんですか」

 私は体を起こし、おじいさんに訊ねた。

「さあ」

「さあ?」

「いつか着くじゃろ」

「いつか・・」

 ここの人たちの時間の感覚は、日本のそれとはまったく次元が違っていた。流れている時間そのものが違っている。

「・・・」

 ここで日本の感覚は通用しない。私は知った・・。

「ん?なんだあれ」

 その時、道の先の方に、複数の人間たちが、立ったり地べたに寝たりを繰り返し繰り返し尺取虫の如く進んでいく姿が見えた。

「あれは五体投地だ」

 おじいさんが言った。

「五体投地?」

「巡礼者だよ」

「巡礼者?」

 私は、首を傾げる。私にはまったく分からない。

「やあ」

 十人くらいいるその集団の背後に近づくと、おじいさんがその人たちに声を掛けた。すると、みんなその奇妙な体の動きを止め、気のよい笑顔をこちらに向けた。見ると小さな子どもたちまでいる。その子たちも無邪気な笑顔をこちらに向けた。

「お茶にしよう」

 そう言うとおじいさんは、馬車をとめそこからよいしょっと降りると、その場で火を熾し始めた。そこに足を止めた巡礼の人たちも、それに加わりお茶の準備が始まった。

「・・・、っていうか、お茶飲んでる場合じゃ・・、日が暮れちゃう・・、っていうか火を熾すところから始めるの・・?」

 だが、私はその姿に戸惑うばかりだった。ここの人たちには時間は無限にあるらしい。私の心配とは関係なく、のんびりとお茶の準備は進んでいく。

 みんなで焚火を囲んで車座になって座ると、私の手に熱いお茶の入ったカップが手渡された。

「ん?」

 その手渡されたお茶はなんだか、奇妙な色と香りがする。とりあえず飲んでみると、のんびりと淹れられたそのお茶はその見た目通り、なんとも奇妙な味がした。

「バター茶よ」

 私の右隣りに座っていた小学校低学年よりちょっと大きいくらいの少女が言った。少女はおいしそうにニコニコとバター茶をすすっている。

「バター茶・・」

 バターとお茶という組み合わせが、うまく繋がらず私はしばし、バター茶を見つめる。そして、もう一度、口をつけた。

「んんんっ」

 これをうまいと言っていいのかなんなのか、塩気もあり、お茶のようでいてスープのような、なんとも不可思議な味だった。しかし、体の中の足りない何かが、すーっと補給されていく心地よさがあった。体の求めるおいしさだった。

「どこまで行くの?」

 私は隣りの少女に訊いた。

「決まっているわ」

 少女は笑いながら答えた。

「えっ?」

 そう言われても、私には分からない。

「聖地よ」

 それはここでは聞くまでもない当然のことらしい。

「おねえさんはどこへ行くの?」

 今度は少女が私に訊き返してきた。

「う~ん」

 私は首を傾げた。そう聞かれても、私にも私がどこへ行くのか分からない。

「あっち?」

 とりあえず、自信なさげにクマリの指さした方を指さした。そこに何があるのか私にもまったく分からなかったが・・。そんな私を少女は大きな目で不思議そうに見つめた。

「私たちは五体投地をしながら、聖地を目指すのよ」

 その時、私たちの会話に割って入るようにして、少女の向こう側に座っていた少しお姉さんの少女が言った。

「五体投地?」

「五体投地は全身全霊で祈りを捧げる最高の祈りなのよ」

 お姉さんはちょっと得気に言った。

「へぇ~」

 あの尺取虫みたいに進むやつか・・。私はあの奇妙な動きを思い出す。あれがそんなすごいものなのか、私には全然そう思えなかったが、でも、全身全霊の感じは分かった。確かに全身で祈っている。

「でも、どうしてあんなにめんどくさい進み方をするの?普通に歩いて行けばいいんじゃない?」

 そう、私が言うとその場にいた全員が笑った。冗談だと思ったらしい。

「それでは意味がない」

 お父さんらしき男性が言った。

「そうなんですか」

「そうだ。普通に行ったらそれはただの巡礼だ。これは特別な巡礼なんだよ」

「へぇ~、そうなのか・・」

 その後、まったくその意味を分かっていない私は、その場の全員に総ツッコみされていく。

「全身で祈りを捧げながら聖地を目指し巡礼することに意味があるのよ」

 小さい方の少女が、私に諭すように言った。

「・・・」

 こんな小さい子どもに諭されるほどに、私はここでは無知な人間らしい。

「う~ん」

 私にはやはりその行為の意味は分からなかったが、確かにそこまですれば願い事も叶いそうな気がする。

「どのくらいで聖地にはつくの?」

 私は訊いた。

「三年くらいかな」

 お姉さんの方の少女が答えた。

「さ、三年!」

 やはりここの人たちは、時間の感覚が日本とまったく違うらしい。私は少しくらくらした。

「三年と言えば・・」

 日本で三年と言えば、高校に入って、そのまま卒業してしまえるじゃないか。その間この人たちは、あの尺取虫みたいなことをして、ただ進んでいくだけをしていく・・。なんだか、今その人たちを目の前にしながらそのことが信じられなかった。

「ところでみんなは家族なの?」

 隣りの小さい方の少女に訊いた。家族にしては、人数が多い気がしたし、年齢や性別のバランスからして、家族構成がなんかおかしい感じがした。

「ううん」

「えっ、違うの!」

「うん、同じ村の人たち」

「家族じゃないんだ」

 それも驚きだった。

「うん、でも、みんな家族みたいなものだから」

「・・・」

 家族じゃない人たちと三年も旅をするのか。私の常識を完全に超えていた。

「おねえさんも一緒に行こうよ。とっても功徳があるのよ」

 その時、小さい少女が言った。

「そうよ。それがいいわ」

 大きい方の少女も言った。

「えっ」

 少女たちがそのきれいな目できらきらと私を見つめる。

「行く場所、決まっていないんでしょ」

「う~ん、確かにそうだけど・・」

「それはいい」

 私の向かいに座っていたリーダーらしきおじさんまでがきらきらとした目で私を見始める。

「そうしたらいい」

 馬車のおじいさんまで加わった。

「いやあ~、私にはちょっと無理かなぁ~」

 なんか変な流れになってきたが、私にこれを三年やる根性はなかった。

「とても功徳があるのよ」

 バター茶を私にしきりに注いでくれるおばさんも勧めてくる。それに連動して、若いお兄さん連中までが賛同する。なんか断れない強固な雰囲気が形成されつつあった。

「う~ん・・」

 答えはとりあえず保留のまま、のんびりとしたお茶会はその後、のんびりと続き、いつ果てるとも知れないのほほんとした時間が流れていった。

「う~、苦しくなってきたな」

 次から次へとバター茶が注がれ、飲まなきゃ悪いと思い、それを次から次へと全部飲んでいるうちに私のお腹ははち切れんばかりにたぷたぷになっていた。

「う~っ」

 苦しい。だが遠慮会釈なく、バター茶は次々と善意のこもった笑顔と共に私のカップに注がれていく。

「しかもこれ腹に溜まるなぁ」

 私は色んな意味で早く出発して欲しかった。

 だが、私の願いも虚しく、結局日が傾き始めるまで、そのままおしゃべりは続き、今日はここにテントを張ってそのまま泊まることになった。

「やっぱり、みんなのんびりしてるなぁ」

 ここまで来ると私はそののんびりした感覚に感嘆していしまう。

「でも、まっ、いっか」

 よく考えれば私は急いでいるわけでは全然ない。いつまでにつかなければならないといった制約は皆無だった。

 毎日毎日、何度も何度もやっているからなのだろう、手際よく手順よく、無駄なく何かのプロ集団のような連携とチームワークでスラスラと大きなテントが立ち上がっていく。そして、同時進行で、女性陣によって、これまた手際よく夕飯の準備が進んでいく。

 そして、小麦粉を煉って塩を加え、熱した石の上で焼いたナンのようなパンが出来上がった。

「はい、どうぞ」

 私は、彼らのチームワークにまったくついて行けず、ただなす術もなくボケッとしていただけなのだが、その焼き立てのパンをありがたくいただいた。

「うま~い、なんだこれ」

 私は驚きのあまり目を剥いて手に持ったパンを見つめる。そのパンは滅茶苦茶うまかった。小麦粉と塩だけなのに、それは信じられないほどにおいしかった。

「なんなんだこれは」

 この神がかったうまさに、私の目はくるくると回った。そんな私を見て、みんなおかしそうに笑った。

 重さが計れそうなくらいの濃い闇の中に、焚火の炎だけが温かな光で、それを囲む人々それぞれを浮き上がらせていた。日は完全に山の彼方に沈んでいた。パチパチと薪の爆ぜる音。遠くを流れる風の音。人々の息遣い。辺りはどこまでも深く深く静かだった。

「うわっ、すご~い」

 空を見上げると、そこには満天過ぎる満天の星空が広がっていた。空気が澄んでいるからだろうか、標高が高いせいだろうか。よく星が空から降って来そうだという表現があるが、まさに丸ごと降って来そうなぐらい星が溢れていた。

「すごいなぁ」

 私は見上げたまま、固まってしまった。

 ここは時間も空間もやはり規格外だった。自分がいったい何に焦っていたのか、なんだか恥ずかしくなってきた。そうだ時間なんていっぱいあるじゃないか。私は思った。

「今日も一日いろんなことがあったな」

 その夜、テントの中で巡礼旅の人たちと一緒に、ぎゅうぎゅうに囲まれて寝ながら私は、今日一日を振り返っていた。今日一日で私のこれまで蓄積され固定された常識がまた一つ崩れていくのを感じた。

「・・・」 

 何だかとてもいい旅をしていると私は感じた。

「ふぅ~、疲れたぜ」

 私はそんな感慨の中、心地よい疲労感に包まれ、心地よい眠りの世界に落ちていった。

 と、思ったのも束の間、私はすぐに目が覚めた。

「う~、トイレに行きたい」

 原因は明らかにバター茶の飲み過ぎだった。だが、大家族にパズルのピースの如くがっしりと取り囲まれた私はここから抜け出せる状態ではなかった。

「過酷な旅だなぁ・・」

 私は心底思った。

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