第2話 クマリ
「なんか、けっこう賑やかだな」
命がけで辿り着いた町は、都市とはいかないまでも、立派な町並みが広がり、人と物とお店で溢れていた。街から大きく離れたヒマラヤの麓だと聞いていたので、私はもっと辺鄙な村かと思っていた。
人の行きかう道の両脇には様々な屋台や店が並び、日本のお祭りのように華やいでいた。
「すごいな」
やはり、インドに似たなんとも言えない熱気というか猥雑さがそこにはあった。
「うう、なんかまだ気持ち悪い」
しかし、バスを降りてからしばらく経つが、私の体はまだ揺れていた。丸一日、もらったお菓子以外何も食べていなかったが、食欲はまったくなかった。
私はとりあえず近くのカフェに入って、椅子に座った。カフェと言っても、ただ通りに乱暴に粗雑な種類の違う椅子が並べられているだけなのだが、とにかく何かに座りたくて、私はその一つに座った。
そして、まったく飲みたくなかったが、一応何か注文しなくてはと思い、チャイを頼んだ。
「うまいぜ」
しかし、チャイはうまかった。チャイは相変わらず甘ったるく、口の中がなんとも言えずねばついた。
「なんか、元気出てきたな」
なんか知らんが、この土地の気候風土に合うのか、チャイは私を妙に元気にしてくれた。
「う~ん」
私は、しばし、チャイを堪能しくつろいだ。
「思えば遠くへ来たもんだ」
なんだかよく分からないが、私は、日本から遠く離れ、このヒマラヤの麓の名も知らぬ町へやって来てしまった。そのことに、私は何とも言えぬ感慨に浸る。
「ん?」
その時、ふと、カフェの隣りの屋台の壁にやたらと、ベタベタ写真が貼ってあるのが目についた。よく見ると、周囲の柱や電柱などにも、そこかしこに似たような写真が貼ってある。
「なんだ?」
私は立ち上がって、その傍まで行ってそれを覗き込む。そこには証明写真のような、人の上半身の姿の写真が写っていた。
「これは全部、ここで行方不明になった者たちだ」
その写真を覗き込んでいる私に、知らないおっさんが話しかけてきた。
「えっ」
中腰の私はそのおっさんを振り返り仰ぎ見た。
「外国人旅行者のな」
「えっ!」
「家族が探しに来て貼っていくんだ。まあ、見つかったためしはないがね」
なぜかおっさんは偉そうに言った。
「ゴクッ」
口の中でねばついていたチャイの名残りと唾液とが、喉奥へ勢いよく飲み込まれた。なんかさらなるとんでもないところへ私は来てしまった気がした。
「お嬢ちゃんも気をつけるんだな」
そのおっさんはそう言って行ってしまった。
「・・・」
どう気をつけろって言うんだ・・。私は戸惑いながらそのおっさんを見送った。
カフェで休み、チャイを飲んで少し体調の回復した私は、町を回って少し観光してみることにした。来てはみたものの、これからどうしていいのかも分からない。とりあえず思いついたのはそれしかなかった。
町を歩くと、いたるところに様々な神さまが祭られ、たくさんの人々が入れ替わり立ち代わりそこにお参りしている姿が見えた。
「あっ、こんなところにも」
足元を見ると、道の端に小さな神さまの像が置かれていてその前にはきちんと、花と供物とバカでかい線香がたくさん捧げられ、もうもうと煙が立ち上っていた。
「神さまかぁ~」
私は三億三千万の神さまについて熱く語るシヴァの姿を思い出した。ここでも多くの神さまが信仰され、大切に祀られている。そこにどこか、日本人はないのどかなやさしさを私は感じた。
「へぇ~、おもしろい」
市場に連なる屋台を覗いて行くと、お店には様々な物が売られていた。
「おっ」
石を売っている店まである。
「なんに使うんだろう」
まったくの謎だった。
「あっ、今度は木屑を売ってる」
私は驚いてそれを覗き込む。
「お嬢ちゃん。これは屑ではない。香木だ」
真っ白な長い顎鬚を生やした店の奥に鎮座していた、店主と思しき、どこか貫禄の漂う爺さんが言った。
「香木?」
「そうだ。こっちへ来て嗅いでみなさい」
私が店に近寄り、鼻を近づける。
「あっ、すごい、いい匂い」
「だろう」
私の知らないことはまだまだ多い。
「おもしろいなぁ~」
町を歩ていると様々な物が目に飛び込んできて飽きることがなかった。
さっき飲んだチャイの粘り気がさらなるチャイを求め始めた頃だった。程よくまた、チャイの屋台を発見した。
「今度は立ち飲みか」
ここは立ち飲みだった。
「一杯ください」
「はいよ」
「しかし、すごいな」
すぐに出来上がったチャイを飲みながら、周囲の屋台の連なりを見渡して私は改めて感嘆した。まるで一時流行ったジェンガのように、いや、それ以上に簡素でいて複雑に絡み合い、組みあがった今にも崩れ落ちそうなそれぞれの華奢な店は、それでいて相互の絶妙なバランスで成り立ちその形と秩序を保っていた。
「ちょっと押したら、ドミノ倒しみたいに全部倒れたりして。フフフッ」
私がよからぬことを考えて、一人ほくそ笑んでいた時だった。
「あっ」
子どもたちが突然走って来て、その一人が私にぶつかった。
「ああ」
その拍子によろよろとよろめく私は、近くの店のひさしを支えている棒にとっさに掴まった。
「ふーっ、危なかったぜ」
と思ったのも束の間。
「あああっ」
その棒ごと私は倒れた。
「ああああっ」
すると、それが引き金となって、ドミノ倒しの如く隣りの店、隣りの店と連鎖的に次々とすごい勢いで店が倒れていく。それはもう誰にも止められない激流の如く勢いで続いていき、噴煙のような凄まじい埃と阿鼻叫喚が、辺り一面に吹き上がっていった。
「ああっ」
私は、ドミノ倒しに倒れていく店を、ただ茫然と見つめるしかなかった。
「・・・」
あらかたの倒れるべき店が倒れ、もうもうと立ち上る埃が静まった時だった。はたと見ると屈強そうな、日本で言うところのコテコテの九州男児みたいな眉の濃い角刈りの男たちが、私を睨みつけていた。
ものすごい範囲の屋台が倒れていた。
「わっ、違うんです。あの違うんです」
と、言っても理解してもらえるような状況ではない。私は持っていた飲みかけのチャイのコップを投げ捨て、反射的に走り出していた。それに連動してすぐに九州男児たちも私を捕まえるべく走り出した。
どこをどう走っていいのかまったく分からなかったが、私はとにかく盲滅法走った。狭い路地の、そのまた路地裏の、さらに奥まった迷路のような路地を私は走り抜け、背の低いトンネルを何度も潜り抜け私は必死で走った。
しかし、何度目かの低いトンネルをくぐり、バカデカイ屋敷のような建物のあるその中央の広場を抜け、再び路地に入り、そして、直角の角を曲がった時だった。
「あっ」
そこは行き止まりだった。
「・・・」
しかし、追手の九州男児たちは、しっかりと追いかけてきている。
「どうしよう」
殺されるのか?よくてフルボッコか。そんな自分の凄惨な姿が焦る私の頭をよぎっていく。しかし、もうどこにも、逃げ場はない。絶対絶命だった。
そして、九州男児たちの足音が大きくなってきた。
「ああ、ダメだ・・」
終わった。私は思った。もうフルボッコを覚悟するしかない。
「ん?」
その時だった。背後のレンガで作られた頑丈な壁のその一隅の、鉄で出来たこれまた頑丈そうな小さな扉が開き、その中の暗闇から白い小さな白い手が、突然すーっと伸びてきた。
「?」
そして、その小さな手はゆっくりとおいでおいでと私に向けて手招きするように揺れた。私は考える間もなく、その闇に飛び込んだ。それと同時に扉が閉まる音がした。
その直後、背後で、人のざわつく声がする。
「確かにいたはずなんだがな」
「どこ行ったんだ」
そんな男たちの声が聞こえる。
「危なかった」
私は胸に手を当てほっと胸をなでおろした。まさに間一髪だった。
「ん?」
とりあえずホッとし、ふと我に返って目の前を見下ろすと、私の足元に小さな幼い少女が薄闇の中、無表情で私を見上げるように一人立っていた。
「あ、あの・・」
少女は私が気づいたと察すると、無言のままくるりと背を向け奥へと歩き始めた。
「・・・」
私はなんだかまったく訳が分からなかったが、それに黙ってついて行った。
奥に、ろうそくの明かりが無数に照らし出す巨大な祭壇のようなもののある広い部屋に入ると、少女の姿が、ややはっきりと見え始めた。少女は不思議な化粧に奇妙な衣装を着ていた。目は濃いアイシャドウで縁取られ、額には大きな第三の目のような模様が描かれている。そして、真っ赤な生地に色とりどりの細かい刺繍の施された古い民族衣装のような着物を着たその上に、蛇を模った重厚で少し大げさな首飾りを掛けていた。
「私は生きた神、クマリ」
私が質問する前にそれを察したように、クマリは独特の据わった視線を私に見据え言った。
「クマリ?」
「私はこの街の守護神タルーナの化身」
「守護神タルーナ」
確かに、なんか雰囲気のある子どもだった。威厳があるというか、神秘的というか。
「なぜ、私を助けてくれたの?」
「そうしろと言われた」
「タルーナに?」
クマリはゆっくりと頷いた。日本の小学校低学年位なのだが妙に落ち着きと貫禄がある。
「お前が来ることは、何年も前から知っていた」
「何年も前から?」
クマリは頷いた。
「私はただそれをしただけ」
その時、クマリの背後でろうそくの炎が一斉に揺れた。
「お前にはこれからとても大切な役割がある」
「役割?」
私が問い返すと、クマリは頷いた。
「私の役割って・・?」
突拍子もない話に、私はまったく訳が分からない。だが、その大切な役割が何なのかクマリは言わなかった。
クマリはまた黙って静かに歩き出した。本当に静かで空気が歩いているようだった。私はまたその後ろについて行った。
「ここから、出て行けばいい」
クマリが扉を開けると、暗い部屋に外の光が強烈に入って来て、私は一瞬目が眩んだ。
「私の役割は終わった」
クマリは最後に言った。
「私はこれからどこへ行けばいいのでしょう」
クマリは黙って真っすぐ腕全体で指さした。それはヒマラヤを指していた。
「さらに行けと・・・」
クマリは頷いた。
「・・・」
クマリの屋敷を後にした私は、なんとなく今の出来事が夢だったのではないかという不安にかられた。私は本当にクマリに会ったのだろうか。あまりにあっという間の出会いと別れに、私はなんとなくクマリに会ったことそのものに確信が持てなかった。
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