神様は明後日帰る 第3章(ヒマラヤ篇)
ロッドユール
第1話 超高速バス
「あちゃ~、もういっぱいか」
麓の町へ行くバスの中は、日本の通勤ラッシュも真っ青な、人間畳鰯の如く超過密カオス状態だった。
「どうしたものか」
その時、バスの一番入口付近に乗っていた、髭の男が人さし指を一本立て、上を指差した。
「上?」
私は指の先を追って上を見上げた。バスの屋根には荷物台に乗せられた荷物と一緒に人が何人か乗っていた。
「ここに乗れと・・」
屋根の上から手が差し伸べられる。
「う~」
しばし迷ったが、ヒマラヤが私を呼んでいた。私はその手をはっしと掴んだ。
屋根の上は予想以上に高かった。
「大丈夫なのか・・」
でも、景色はよかった。
「食うか?」
「あ、ありがとう」
隣りの青年に、なんかよく分からん地元のお菓子をいただいた。
私はもらったお菓子をパクつきながら、「これはこれで結構いいかも。まっ、のんびり、景色を見ながらも悪くないか」とのんびり思った。
しかし、私はまだこの時、これが地獄の始まりとは気づいていなかった。
明らかにというか、もはや曲芸の域にまで達した、屋根だけでなくバンパーや側面など、そこかしこに定員オーバーの乗客を乗せたバスはガタガタと足元もおぼろに動き出した。
走り出してすぐ、おんぼろバスのせいなのか、ガタゴトの砂利道のせいなのか、その両方なのか、車体が上下左右に暴れ馬のごとく揺れまくり始めた。にもかかわらずバスはどんどんそのスピードを上げていく。
「なんかすごいな」
まだこの時、私はこの揺れを楽しむゆとりがあった。
だが、すぐにゆっくりお菓子などつまんで景色を楽しんでいる場合ではないと気づいた。バスのスピードはさらに恐ろしいほどに上がっていき、揺れはさらに激しくなっていく。
「わあっ」
私は恐怖を感じ始め、荷物台の周囲を囲っているパイプを握った。
バスはなおもスピードを加速させていく。それに連動して、バスの揺れは最高潮に上がっていった。私は振り落とされないように必死でパイプを握った。
「あっ」
私の隣の青年が落ちた。
「えっ」
しかし、バスは無情にそのまま走り去って行く。
「あの、人が落ちましたけど・・」
いつもの事なのか、自分の事で精一杯なのか、周囲の人たちは見向きもしない。
「あっ」
と、今度は後ろのバンパーにしがみついていた青年が落ちた。青年は直ぐに立ち上がり足を引きずりながら必死でバスを追いかけ始める。だが、やはりバスは止まるどころかブレーキを踏む気配さえない。
「・・・」
私はその青年をバスの上から見送った・・。
バスはなおも加速していく。もはや百キロ以上は出ているのではないかと思われた。私は怖くなり、姿勢を低くし荷物台の荷物に必死でしがみついた。と、その瞬間だった。
ど~ん
すごい衝撃音と共に私の体は一瞬宙に浮いた。何か大きな穴にでも落ちたのだろう。車体が一瞬ものすごい勢いで跳ね上がってまた元の道に着地した。というか落ちた。私は一瞬の無重力体験に放心した。
「いったい、今何が・・、何かものすごいことが起こったような・・」
それでも、バスは何事もなかったように、やはりスピードを落とすどころか、さらに勢いをまして爆進し続ける。
ふと見ると、すぐ横は断崖絶壁の急峻な谷底だった。しかも道は狭いのに対向車をよけながら崖際ギリギリを綱渡りの如く走って行く。
「落ちたら即死」
恐ろし過ぎる状況だった。私の脳裏に、最悪に不吉な考えがよぎらずにはいられなかった。
「なんか気持ち悪くなってきた」
緊張と恐怖に追い打ちをかけるように、あまりに長く激しく揺さぶられたせいで、私はなんだか吐きそうになってきた。胃がむかむかして、それをさらにバスの揺れがかき回す。
「う~、やばい」
もちろん、このバスが私の都合で止まるはずもない。
「う、うぇ~」
遂にこらえ切れなくなって、私は胃の中のものを全部、体の生理現象の赴くままに体の外に吐き出した。
私の吐いた胃の内容物は直ぐに、風圧で目にもとまらぬ速さで後方にぶっ飛んでいった。
ふと不吉な予感がして後ろを振り向くと、ゲロの塊は屋根の後ろの方にしがみついていた青年とその彼女らしき二人の顔面をものの見事に直撃していた。
「ごめんなさい」
私は心の中で謝った。
「ほんとごめんなさい」
しかし、そんな私に贖罪の余裕も与えないほど、なおもバスは猛スピードで爆走して行く。
私の荷物台を握る手が痺れて来た。手に力が入らなくなってきている。私の握力はもう限界だった。
「あ~、もうダメだ」
と、思った瞬間、私の体は宙を舞った。
「ああ、遂に私も落ちていくのか・・」
私の頭の中に走馬灯が流れ始めた。短い一生だった・・。
と、思った瞬間。はっしと私の腕を握る腕が伸びて来た。その腕に支えられ、かろうじて私はバスに体が残った。
「ありがとう」
腕の先を見ると、さっき私がゲロをぶちまけた青年だった。もう乾燥し始めているゲロをこびりつかせた顔で、青年は私を見てやさしくニコッと笑った。
「ほんとすんません。ほんとすんません」
私は心の底から謝った。
数々の脱落者を出しつつ、出発後、十時間が経ちバスは目的地であるヒマラヤの麓の町に着いた。
「どんだけ過酷なんだ・・」
疲労と緊張で、全身が感覚もおぼつかないほどに痺れきっていた。屋根から下りた私は息も絶え絶え足はふらふらだった。やっとこれ以上ない安定した大地に下りたにもかかわらず私の体はまだ揺れていた。
「今日は遅かったな」
停留所のおっさんがバスから降りてきた運転手におもむろに言った。
「ああ、今日は大分のんびり来たよ」
そう言って運転手は朗らかに笑った。
「これで?」
私はその場にへなへなと崩れ落ちた。インド恐るべし。私は心底その恐ろしさを知った。
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