パート3

「――木村さんを、返して下さい」


 夕希が言った。怯えはひとかけらも感じられない。それまでの夕希を知る者であれば、別人と見間違える程だ。それ程までに、星沢夕希は半年足らずの間に成長し、その上、本来の臆病で弱虫な性格を掻き消すばかりの怒りを覚えている。


「ええ、勿論、返すわ」


 女が、細い顎を、くぃと持ち上げた。

 すると、瑞穂の手を縛っている縄尻を捕らえていた男が頷き、小さな少女を立ち上がらせた。小鹿のように足を震わせている瑞穂であったが、それを男は無視して、彼女の尻を蹴飛ばした。前につんのめるようにして、瑞穂が夕希の方へと歩み寄って来る。しかし夕希の所へは辿り着けずに、途中で倒れ込んでしまった。


「その代わりに……」


 と、女が言った。


「あんたにも、すこぅし、痛い目に遭って貰うわ」


 女が腕を組むと、男たちが、つぃと前に出て来る。拝殿を背にしていた男たちは、拝殿から放射状に広がるようにして前進し、つまり、夕希を半円状に囲むようにして近付いて来る。


 夕希は男たちの動きに気を配りながら、その場から動かずに、自分の肉体の内側で気を高め始めた。暴力と向き合う為の気力だ。

 一人であればすぐに背中を向けて逃げ出しても良いが、瑞穂がいるので、それは出来ない。又、背中を向けた瞬間に、後頭部に向かって何かが飛んで来るかもしれない。それを嫌がっての事だった。正面を向いていれば、少しは、それらに対応する事が出来る。


「随分と、肝が据わっている事ね」


 女が感心したように言った。

 この時点で男たちは、夕希に対して扇状に広がっている。

 夕希の眼の前に瑞穂が倒れ、その向こうに一人。

 両脇に一人ずつ。

 更に夕希の前方の左右、斜めの位置に一人ずつ立っている。

 スキンヘッドの男は右から二番目、長髪の男は一番左端だ。


「最初っからぴりぴりしちゃって、怖ぁい」

「――」

「そんなに緊張しなくても、別に、囲んで畳んでしまおうだなんて、考えていないわよ」


 女は、くっく、と、笑っていた。


「貴女だって、その可愛いお顔を潰されたくはないでしょう? カリナは、貴女の事をって言っていたらしいけど、何も病院送りにしてやろうってんじゃないのよ」

「――それじゃあ、痛い目って言うのは?」

「簡単な話よぅ。貴女がそこでパンツを脱いで、地面におしっこをすれば良いの。私たちが、それをしっかりと見て、ビデオで撮って上げるわ。それで、今回の件は、全部ちゃらにしましょう」

「――脅しですか」

「脅し? まぁ、そういう風に、捉える事は出来るかもしれないわね」

「――」

「ただ、それさえやれば、これ以上はないって、そう言っているんだけど、そうかしら」

「これ以上?」

「こっちの人たちと、喧嘩、したくはないでしょう?」


 女が自分の頬に指を当てた。彼らのバックには暴力団が控えており、瑞穂を捕らえたのもそういった関係からである。


 夕希の痴態を撮影させれば、この場はそれで収めるが、そうしなければバックにいる暴力団と結託して、夕希に危害を加えるという事もあり得ると、女はそう言っているのであった。


「あの人たちに捕まったら、悲惨だと思うな。風俗に売り飛ばされて、安い値段で男に抱かれて、お尻の孔まで開発されて、最後にはあそこが使えなくなるまで犯されるわよ」


 ぞっとするような事を女は平然と言った。同性であっても欲情を禁じ得ない夕希の身体が、今し方口に出したような悲惨な目に遭う所を想像し、いびつな興奮を覚えているように腰をくねらせていた。


「それに比べたら、今ここで、おしっこの孔を見せるくらい、何でもないと思うわ」

「――そうでしょうか」


 夕希が言った。


「うん?」

「今、ここで貴方たちの言う事を聞いたら、それをネタに脅されるんじゃないですか」

「貴女がおしっこする所を、ネットに流すわよ、とでも? 勿論よ。でも、私たちが何をやるにしても、だわ」

「それまで?」

「それで、ちゃらにするって、さっき言ったでしょう? 貴女は私たちに自分のいやらしい姿を撮らせる。私たちはその対価に、貴女やその子にはもう手を出さない。それを、脅しと呼ぶかどうかは貴女に任せるわ。でも、それだけで済ませる心算よ」

「嘘です」

「――」

「貴女の言葉は、信じられません」

「――酷いな。貴女に、私たちの何が分かって? 私たちこれでも筋を通す方だって有名……」

「分かりません」


夕希は、女の言葉を遮った。断ち切ったと、言っても良いかもしれない。


「だから、貴方たちを信じられないと言っているんです。私と貴方たちとの間に、そこまでの信頼関係はありません。ここで貴方たちに従って、貴方たちが約束を守るとは思えません。だから――」

「だから?」

「貴方たちに、敗ける訳にはいきません」


 夕希は、女を真っ直ぐに見据えて、そう言った。


 人の前で股を開く――それに対する羞恥とか、常識とか、そういう事ではない。そこに相応な対価があるのならば、それが物質的なものでも、精神的な事であっても、夕希はそこをつまびらかにする。


 但し、その対価は信頼出来るものでなければならない。仮に裏切られるにしても、こちらが信じた責任は自分だけのもので、誰かに押し付けたりはしない。その信頼関係が、瑞穂を傷付けた者たちと夕希との間には、存在しないのである。


 ここで提示された条件が何であったとしても、夕希は従わなかった。ここで、眼の前にちらつかされた暴力団の影に屈するのは、自分の心を捻じ曲げてしまう事である。


「莫迦ね……」


 女が、呆れたように溜め息を吐いた。


「本当に痛い目に遭わせられれば、その考えも変わるでしょう……」


 女がそう言うと、五人の男たちが、何れもいやらしく笑みを浮かべながら、前に出て来た。眼の前にいるたかだか一五、六の少女一人、どうとでもなるという顔である。


 五人……


 不可能だ、と、夕希は思った。

 彼ら五人を相手にして、この場から瑞穂を連れ出し、逃げる事だ。


 自分だけならば、どうにか逃げ果せる事も出来るだろう。一人くらいならば、怯ませる事が出来ないではないだろう。しかし、自分も、瑞穂も無事に済ませるという事は、殆ど無理に近しい。


 けれども、無理だからと、今更謝って済むとも思えない。自分を裏切る事も出来ない。瑞穂を置いて逃げる事も出来ない。


 万事休す……で、あるならば。


 ――死ぬかぁ。


 ほろりと、夕希の胸の内から、そんな言葉が這い出して来た。

 それは、風のように緩やかながら、刃のように鋭く夕希の背骨を下から突き上げた。冷たい金属の意思が、熱い鉄の思考が、脳に突き刺さったのである。


 息をするように自然に、それは夕希の全身を支配した。


 死ぬ。


 ぞわぞわと、全身の産毛が、静電気を纏ったかのように立ち上がったような気分であった。心臓がばくばくと鼓動し、全身を熱血が踊る。震える血液が肛門の皺に入り込み、菊の花が開くようにして全身に広がった。かちかちと歯が打ち鳴らされ、眼球が左右に揺れ動く。


「震えてるぜ」


 男の一人が言ったようであった。


「今更怖気付いたって遅いぜ」

「これじゃ、小便だけじゃ許せねぇな」

「おい、どうだい。眼の前で自分でやってみろよ。そうすりゃ、許してやるぜ」


 下卑た男たちの言葉も、夕希の耳には入らなかった。男たちが夕希を好きにいたぶる瞬間を夢想しているように、夕希も自身の精神から溢れ出す得体の知れないものに酔っているのだ。


 死ぬ――


 思わず頭を過ったその思考に、夕希は支配されていた。今まで一度たりとも感じた事のない感情だ。感じたとしても、それは、自分の外からやって来るものであった。今は違う。今、その死は、自分の内側からぬぅっと鎌首をもたげたのだ。


 男たちはそれに気付かない。気付かないまま、夕希に歩み寄ってゆこうとする。


 夕希が顔を持ち上げた。瞳孔が開き、口元が緩んでいる。肌が真っ蒼であった。普通なら、それは、恐怖の感情を覚えているように見えるだろう。迫り来る男たちからの暴力に怯えているものと、普通は解釈されるだろう。

 しかし、男たちよりも若干ではあるが近くから、夕希の顔を見ていた瑞穂は、夕希の表情に潜められたものを見て背筋を震わせた。


「ひゃめ……」


“駄目”と、言ったらしかった。


「ゆうひひゃんっ……」


 擦過音が駆け抜ける。瑞穂の発する言葉ではない。それを受け取る夕希の方に、異常が起こっていた。


 ぴたりと震えが止まり、夕希の方から、足を前に踏み出して――


「そこまで!」


 鋭く、声が走った。

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