パート2
湖の南側の土手を、夕希が駆けている。
土手のすぐ右手には道路があって車が行き交い、その向こうに線路、その更に奥に一つの山がある。この山の中に、江戸時代に造られた庭園や、件の神社があるのであった。
道路と線路を跨ぐ歩道橋を越えて、石段の前にやって来た。暗がりに高くそびえる石段であったが、夕希は、そこを一気に駆け上る。
走るのはやはり得意ではない。しかし、この四月から始めた日常のトレーニングの賜物か、夕希の身体は温まるばかりで、疲労をその体温が薄めてしまっていた。
そして何よりも、怒りがある。
木村瑞穂を傷付けたカリナたちへの怒りだ。
瑞穂は、夕希の事を友達であると言ってくれた。
千恵から、カリナに眼を付けられていた瑞穂と、仲良くやって欲しいと言われていた。
しかし、夕希個人として、瑞穂とそこまで深い仲であるという感覚は、正直な事を言ってしまうと、ない。この四月以前の夕希であれば、彼女の事など素知らぬ顔で、千恵に頼まれた買い物をして戻ってしまっていただろう。
だが今、夕希は怒っている。
カリナが、彼女自身の手を汚す事なく、瑞穂を傷付けさせた事だ。
友人ではある瑞穂を傷付けられたという事に対する憤りは、勿論、感じている。けれどもそれ以上に感じているのは、瑞穂を理不尽に傷付けた事の方だ。
瑞穂が援助交際をしている。確かに倫理的に正しい事であると、そう言い切る事は出来ない。けれど瑞穂の性格を鑑みるに、彼女には彼女の、何らかの理由があったのだろう。
だから夕希は、瑞穂の事を頭から否定する気にはなれない。
それが、彼女個人のものだからだ。木村瑞穂が、自らの意思で選択し、自らの意思で実行しているものだからだ。
その瑞穂の心に、夕希は干渉したくない。瑞穂の事を尊重したいから夕希は、瑞穂の行動を否定し、彼女自身を貶めるような事を、したくない。
讃えはしない。
代わりに誹りもしない。
守りもしない。
罵りもしない。
導きもしない。
侮りもしない。
それが夕希にとっての、瑞穂を認めるという事であった。
夕希は、千恵に救われたと思っている。彼女が差し出してくれた手を取った事で、自分は変われた。今までの弱い自分から、ほんの少しかもしれないけれど、強くなる事が出来た。
けれどそれは結局、夕希自身が、千恵の手を取ろうと思ったからだ。寧ろ、夕希の方から、千恵に、手を差し出させたくらいである。
千恵はどうして強いのか。
その問いに対する、空手という答え。
空手を学べば、自分も強くなれるのか。
なれると、千恵は言わなかった。
しかし、なれないとも、千恵は言わなかった。
千恵は答えを示した。それは、夕希に問われたからだ。夕希が問い、そこに生じさせたものに、夕希自身が手を伸ばしただけの事だ。
瑞穂はそれをしていない。夕希に何らかの答えを求めなかった。だから夕希は、瑞穂に対して何のアクションも起こさなかった。瑞穂自身がそれを求めなかったからだ。いや、仮に心の中で何かを思っていたとしても、それを示さないのであれば、夕希には届かない。
因果論――瑞穂が夕希に何かをして欲しいと望むなら、夕希を行動させ得る何かを示さねばならないのだ。瑞穂による因がなければ、夕希による果が訪れる事はないのである。
その夕希にとって、放任とも薄情とも取れる尊重の観念を持つ夕希にとってみれば、カリナのやった事は、許せない事であった。
瑞穂はカリナと問題を起こす事を望んでいない。又、自分の行為の全てを、自分の責任であるとして、カリナたちと関わる事を嫌がっていた。
そこに無理矢理、自分たちの勝手な都合で割り込んで来て、筋だの何だとの、自分たちだって決して通しているとは言えないものを押し付け、仕置きだなどと言っている。
そもそもが悪い事であると、カリナたちは分かっているのだ。援助交際や売春を斡旋する事が、だ。
悪い事をしている、それが原因で罰せられるのが嫌だ、だから人垣を作ってその中に悪を閉じ込めて、隠そうとする。これがカリナたちのやっている事だ。
これが気に喰わない。
罰せられるのが嫌なら、悪い事をしなければ良いのだ。悪い事をしなければ生きていけないのなら、その責任を他人になすり付けようなどとしない事だ。そうして自分だけの問題として扱い、自分だけでその問題と向かい合うのが正しい事なのだと、夕希は思う。
それについて、誰かが口出し出来る事ではない。
それを糺そうとするのも、意味もなく弾劾するのも、許されるべきではない。
他人に、他人に干渉する権利などないのだ。
独りだ――
瑞穂だって、戦っている。
何が敵なのか、それは分からない。
けれど、瑞穂だって戦っている。それは、たった独りのものだ。たった独り……夕希が、千恵と向かい合った時のように、たった独りで彼女の試合場に足を踏み入れ、たった独りで彼女の敵と戦っているのだ。
そこに何らかの手助けがある場合は、あるかもしれない。けれどその手を取るのは自分なのだ。
東堂真橘は、果たしてあの場にいたのがこの星沢夕希でなくとも、声は掛けただろうか。真橘が“顔を上げろ”と言ったのは、それが夕希だったからに他ならない。自分に憧れ、空手を始めたという夕希であったからこそ、それを知っているからこそ、真橘は夕希を励ました――天から降って来たような手助けも、その実、夕希自身が選び取った行動から生じたものなのだ。
だから結局、独りなのだ。
戦う時は、選択する時は、孤独なのだ。孤高なのだ。
人生の九割の選択も、残る一割の決断も、たった独りの戦場だ。
だから、そこに干渉し、打ち砕こうとするカリナたちを、夕希は許せなかった。
その怒りがあるから、夕希は、石段を駆け上がる。
その怒りに怯えてはならないから、夕希は走るのだ。
瑞穂を助ける為だと、人の眼には映るかもしれない。そういう感覚が全くないという事は、夕希も思っていない筈だ。それでも夕希は、自分の為に、自分独りの戦いに赴くのだと、考えている。
この怒りから、この恐怖から、逃げる事――戦わない事は、敗ける事だ。
敗けたくない。
逃げたくない。
もう、敗けない。
敗けるもんか……。
昏い情動の中、きらりと光る勇気を胸に、夕希は神社の境内に到着した。
境内に、五人の男と、二人の女がいる。
男の内には、以前、瑞穂の鼻を折ったスキンヘッドの男と、長髪の男もいた。女の一人は、やはり、カリナと共に瑞穂を囲んだ、肌を焼いた女であり、もう一人は他の六人に囲まれる形で、その場にしゃがみ込まされている瑞穂であった。
瑞穂は、写真を撮られた時と同じように体操服姿であったが、写真で見るよりも衣服はずたぼろに破かれており、髪もぐちゃぐちゃに乱れ、見えている素肌には痣を浮かべ、両手を後ろに回されて縛られていた。
あの写真を撮られた後、何をされたか、それは明白である。
浅く肩を上下させながら夕希が境内に踏み込んで来ると、褐色の肌の女と、他の五人の男たちが、残忍な笑みを浮かべて殺気立った。その殺気の中に、年齢からすると分不相応に成熟した夕希の身体に対する、隠そうともしない欲情が混じっていた。
この気配の変化に気付き、瑞穂が顔を上げて、夕希を見た。
「ゆうひひゃん」
瑞穂は、何を言っているのか分からない言葉を発した。唇の端から顎に掛けて、赤黒い固形のものが張り付いている。口を開けば、紫色に変色した唇のすぐ傍に、赤々とした肉が剥き出していた。歯の殆どを折られているのである。
「いらっしゃい……」
褐色の肌の女が、言った。
「待ってたわ、君の事」
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