敗けない……敗けるもんか
パート1
濃紺の空の下に、人が群れている。
町の観光名所ともなっている、湖の畔だ。
八月一四日――
お盆の時期である。
「お盆ってのはさ……」
夕希と千恵は、その人込みから少し離れた土手で、話している。
夕希は紺色の甚兵衛、千恵は清らかな水の中を泳ぐ金魚があしらわれた浴衣を着ている。普段の性格からすれば、その格好は逆のようにも思うが、夕希は、バストが大きいので、浴衣を着るとどうしても形が崩れてしまう。一方、慎ましやかな千恵は、浴衣のような服装が似合う。
二人用の、小さなレジャー・シートに腰を下ろしていた。
「盂蘭盆会っていうんだ」
「うらぼんえ?」
「仏教の行事……ってのは、分かってるよね。その経典にあるんだ」
千恵は、『盂蘭盆経』の内容について、掻い摘んで説明した。
二五〇〇年前、インドに、
神通力を持つ彼は、或る時、自分の死んだ母親の霊がどのような状況にあるかを知ろうとした。すると、母親は餓鬼道に堕ちている。餓鬼道とは、六道と呼ばれる苦しみの世界の一つであり、貪りの心を起こし、それに従って生きた者が生まれ変わる世界だ。
舎利弗の母は我が子を可愛がる余り、他の者たちを蔑ろにし過ぎた為に、そのような目に遭っていた。餓鬼道では口にしようとしたもの全てが灰となって掻き消えてしまい、次に生まれ変わるその時まで、ものを食べたり、飲んだりする事が出来ない。
餓鬼道の母を不憫に思った舎利弗は、釈迦にどうすれば母を救えるのかと相談した。すると釈迦は、雨期が明ける頃、沙門たちに食事を施すように言った。そうすれば、その功徳が、母を思う舎利弗の心と感応し、餓鬼道の母の許に届くであろうという事であった。
そうして舎利弗の母は餓鬼道から救済され、浄土へと生まれ変わる事が出来たのである。
この事が、中国での儒教の思想などと融合して、日本で、先祖が帰って来る時期にお参りをするという文化に変わっていったのである。
夕希は、それを聞き終えて、
「でも、雨期が明けたらって……」
「ま、六月から七月頃だね、本来は。東京では、七月……旧暦の六月にやってるよ」
しかし、日本では、六月中旬と言えば田植えの時期である。田舎ではこの事がある為、実家に帰ってお参りをする事が出来ない。その為、八月にずれ込んだのだ。
一方、田植えを行なえる場所がない今の東京では、本来の時期である七月に行なわれている。
「ああ、因みに、盆踊りってあるでしょ。あれ、舎利弗が、お母さんが救われた喜びの余りに踊った踊りが元になってるんだって」
「そうなんですか」
「らしいよ」
「……千恵先輩って、そういう事、お詳しいですよね」
「んー、ま、ちょっとした知り合いがいてね」
それで――
そのお盆の時期の、花火大会の事なのである。
本来は八月の頭に祭りがあり、その後で花火が打ち上げられる。しかし、本来の花火大会の日に雨が降ってしまった為、一週間延期して、この日になったのだ。
「そろそろだね」
千恵が、浴衣の袂から、スマートフォンを取り出した。最初の花火が上げられるのは、七時である。時刻は六時四〇分。
「はい」
夕希は、わくわくした表情であった。地元の人間として、祭りや花火大会の事は知っているが、こうして参加――しかも、誰かと一緒に花火を見るという事は、初めての事であった。
小さい頃には、両親や妹と連れ立って来た記憶がないではないが、姉と違ってコミュニケーション能力の高い妹は友人と行き、両親にはお盆休みがないので、結局、家で引き籠っている。家から開催地までは、花火が見える程近くなく、テレビでその様子を見る事になるが、キー局がないので興味のないチャンネルに合わせていなければ見られない。
それが、先輩とは言え、仲の良い相手と一緒に見る事が出来る。夕希は初めての体験に、何処となく心躍らせていた。
ぐぅ、と、千恵の腹の虫が鳴いた。千恵が、恥ずかしそうに笑う。
「お腹空いちゃった。出店で、何か買って来るよ。夕希ちゃんも食べる?」
「あ、それなら私が買って来ます」
夕希が立ち上がった。浴衣で動き辛い千恵より、甚兵衛の自分が行った方が良い。こうした気遣いも、自然と出来るようになっていた。
「そう? 悪いねぇ。じゃあ、焼きそばと、たこ焼きと、大判焼きと……後、かき氷!」
「分かりました。大判焼きは、カスタードでしたね。かき氷は……」
「ブルーハワイね。夕希ちゃんはメロンだっけ。食べさせ合いっこしよーよ」
「押忍」
千恵から小銭を幾らか貰って、夕希が駆け出してゆく。草履が地面を噛んでいる。
人込みを掻き分けて、目的の的屋に向かおうとした夕希であったが、不意に声を掛けられた。
見れば、出店の並ぶ通りから少し外れた生垣の所に、カリナが立っている。
「お祭り満喫、って感じだねぇ、夕希ちゃん」
カリナが、にぃっと唇の端を吊り上げた。
「彼氏と一緒だったりするのかな」
「いえ、千恵先輩とです」
「千恵⁉」
その名前が出た事に、カリナは、少しばかり動揺したようであった。
が、すぐにその心の揺らぎを隠すと、
「ふん、まぁ、良いや……」
と、吐き捨てた。
「夕希ちゃん、ちょっと、付き合いな」
「それ、今すぐじゃないといけませんか」
「あ?」
「もう少しで花火が始まります。千恵先輩の所に戻らないと」
「……別に、良いけどさ……」
カリナは、自分のスマートフォンを取り出し、何か操作をして、夕希に投げ渡した。それを受け取ると、液晶に、ぎょっとするような画像が映っていた。
それは、瑞穂が縛られている写真であった。
体操服の半袖シャツと、ハーフ・パンツという格好で、手首を腰で縛られている。何処かの倉庫の中のようであった。コンクリートの床に、薄手のマットを敷いて、そこに転がされている。泣きじゃくっている最中のようで、涙の跡が、頬にくっきりと残っていた。加えて、唇の端から、赤い筋が滴っている。
「これは……!?」
「少し、おいたをしちまったみたいでね」
言いながらカリナは、夕希に何かを投げ付けた。今度は、スマートフォンよりも遥かに小さいものであった。闇の中に煌くそれを、夕希がキャッチした。
赤い色を帯びた、白くて、硬い、小さな塊。
歯!?
カリナから投げ渡されたそれと、写真の瑞穂が唇から滴らせているものが、夕希の中で合致した。これは、瑞穂の歯だ。縛られた瑞穂が、暴行を受け、歯を折られた――
「木村さんに何をしたんですか!?」
「見ての通りさ。おいたをした、って言ったでしょ?」
おいた――それが何を意味するのか、瑞穂が鼻を折られた現場に居合わせた夕希には分かった。瑞穂が、再び、カリナたちの意にそぐわない援助交際をしたのだ。
その代償として、今度は束縛され、歯を折られたのだ。
「また、あの子を、傷付けたんですか……」
夕希の中に、沸々と、黒い感情が沸き上がって来た。判断力が鈍り、自分が彼女に隠そうと思っている事が、遂に滑り出してしまう。
「へぇ、やっぱり、あんた、あそこにいたんだね。じゃあ、救急車を呼んだってのも、あんたな訳?」
「そうです」
もう、隠す心算はなかった。
「そりゃ、良かった。一石二鳥だねぇ」
「――」
「あんたをしめる為さ。あんたが気に喰わないから、あんたのお友達を
「――」
「そこの神社に待たせてあるからねぇ。助けたければ、急いだ方が良い」
湖の傍には、線路を挟んで、梅の名所となっている庭園がある。そこに神社があり、日中は出店が並ぶのだが、夜は人の姿が消え、花火大会に眼が向いている為、神社に注目する者はいない。
「退屈な人……」
夕希は、苦虫を噛み潰したような顔で、鋭く言った。カリナが、眉を寄せる。
「退屈……?」
「随分と、退屈な人なんですね……貴女は」
そう言い捨てると、夕希は踵を返し、神社へ向かおうとした。その夕希に、背中からカリナが声を掛けた。
「どういう意味!?」
夕希は振り返ると、肩越しに、
「夢中になれるものがあれば、人の事なんて、気にならないって……そういう事です」
と、言って、駆け出してゆく。
雑踏に消える夕希の後ろ姿を見送り、カリナは、舌を一つ鳴らした。
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