パート4
「中庭にね、良い所があるの。日陰で、風が気持ち良いんだよ」
東屋の事であろう。千恵と何度か行った事がある。
夕希は、同席する理由もなく、しかし、断るのも悪いと思ったので、瑞穂と同道する事になった。お弁当を入れた保冷バッグと、スマフォと財布などの貴重品を持って、校舎の外に出た。
「こうしてお話しするの、初めてだね」
瑞穂が言った。
「あの時も……」
あの時と言うのは、瑞穂が鼻を折られた翌日の事だ。校舎裏のゴミ捨て場で、カリナに絡まれていた瑞穂を、千恵が助けたのを見た夕希が、瑞穂の鼻の怪我を心配したのである。夕希から一方的に言って、それだけであった。
その後、新入生の為の部活動紹介で、空手部のちらしを配るのを手伝っていた時、カリナと瑞穂が一緒にいるのを、見ている。この時に、夕希と瑞穂の間に会話はなかった。
「そうですね」
「あ、あれ?」瑞穂が戸惑ったような声を上げる。「べ、別に敬語じゃなくて良いよ? ほら、クラスメイト……同級生なんだし」
「そう、ですか」
「ほらぁ。っていうか、星沢さんがタメ口で喋ってるの、聞いた事ないなぁ」
そう言って、瑞穂は面白そうに笑った。確かに、夕希は、学校では敬語しか使っていない。それもその筈で、夕希は基本的に、千恵と先生という目上の者としか話をしていない。瑞穂が、タメ口の夕希を知らないのも仕方のない事であった。
桜の樹が見える東屋の一つに、二人は入った。青々と茂る桜の葉を眺めながら、さわやかな風を浴びる事が出来るスポットだ。いつもは、上級生が使っているが、ゼミの期間は学校に来る生徒も少なく、一年生の二人が使う事が出来た。
弁当を広げながら、
「前は、ありがとう……」
瑞穂が言った。
「――何の事?」
「前、救急車呼んでくれたの、夕希ちゃんなんでしょ?」
瑞穂が、カリナたちに囲まれ、鼻の骨を折られたのを、夕希は見ていた。巻き込まれないように姿を隠したが、カリナとその取り巻きたちが去った所で、夕希は救急車を呼んだ。
「違いますよ」
しかし、夕希は、それが自分だと言う事は出来ない。それを認める事は、瑞穂とカリナとのやり取りを見ていた証であるからだ。
あの時、それを認められなかったのは、やくざと繋がりのあるカリナを恐れての事であったが、今は、少し違う。
瑞穂が、カリナに絡まれる事となった理由――瑞穂が援助交際をしているという事を知っていると、彼女に言う事になる。
夕希は別段、援助交際について口を出す心算はない。瑞穂には何らかの思惑があって、そうした事をしているのだろうからだ。仮に、金に困っているというのではなく、SEXが好きで、そのついでに、少女という自分の
それを責める心算は毛頭なく、彼女を通報する事で自分が得られるメリットもないので、放置を決め込んでいた。
瑞穂にしてみれば、夕希が、自分の援助交際についての事実を知っているか、知らないのか、この二つの間で不安に揺れているだろう。かと言って瑞穂の事を知っていると夕希が言えば、いつ通報されるか分からないという不安に成り代わる。
自分が瑞穂の立場であったら、後ろめたい事を知っている人間を決して信用しない。元からの信頼がなければ、或いは、それを明かしても良いという決定的な信頼が生まれなければ、秘密を公開したりはしない。
瑞穂がどう思っているかは、夕希には分らない。分からないから、哀しい事に、自分がするであろう判断に当て嵌める事しか出来ない。
「そっかぁ、違うのかぁ」
瑞穂は、残念そうに、頬を指で掻いた。
「でも、それがなくても、私、夕希ちゃんとお友達になりたいな」
「友達……」
「うんっ」
そう言って頷いてから、夕希の反応が芳しくなかったのを見て、
「友達だよね……?」
と、不安げに訊いて来た。
夕希は、どう答えて良いものか迷ったものの、
「そうですね」
と、答えた。
「まだ敬語……」
瑞穂は、その事に少しばかり不満を覚えているようであったが、しかし、夕希との距離を近付けられた事が、嬉しいらしく、にまにまと笑いながら、弁当をつついている。
「私、友達、あんまりいないから、夕希ちゃんとお友達になれて嬉しいよ」
その瑞穂の発言に、夕希は首を傾げた。友達が余りいないと言うが、夕希は、瑞穂が何人かでお喋りしているのを見ている。本当に友人がいないのであれば、鼻を折られて登校しても、心配されたりはしないだろう。
夕希などは、千恵との試合の後で、痣を幾つか作って登校した日も、精々、教師が声を掛けて来ただけであった。
「あれは友達じゃないよぅ」
瑞穂が笑った。
「ああしてないと、クラスでハブられちゃうモン。みぃんな、上辺だけのお付き合いだよ」
「そういうのが、あるんだ」
「女の子だもん、あるよ。夕希ちゃんは、何だかさばさばしてて、そういうの気にしなさそうだねぇ。羨ましいや」
「ん……」
と、夕希が、自分の評価に困っていた時であった。
「へぇ、そんじゃあ、瑞穂ちゃんは、私の事は友達とは思ってないんだ」
そのように、やって来たカリナが言った。
瑞穂は、びくりと身体を震わせ、夕希は、カリナを流し見た。
「そ、そういう訳じゃ……」
「いーの、いーの。どうせ私はただの先輩だからねぇ、友達にはなれないよねぇ」
いやらしく唇を吊り上げながら、夕希と瑞穂のいる東屋までやって来るカリナ。
「どうもぉ、千恵の金魚のフンちゃん」
カリナが、夕希を見て、言った。
「金魚のフン?」
「だってそうでしょ? いっつも、千恵と一緒にいるじゃない」
「――」
「尤も、今日はその千恵はいない訳だねぇ……」
あいつ、ゼミに出る程真面目じゃないか――と、カリナは笑った。彼女の言う通り、千恵はゼミには出ていない。若しかしたら補修ぐらいは喰らっているかもしれないが、連絡がないという事は、今日はその日ではないのだろう。
「あんた、空手、やってるんだって」
カリナが、夕希に言って来た。
「はい」
「でも、空手部に入ってる訳じゃないんだよね」
「はい」
「千恵と同じトコ? 確か……」
「力神会です」
「ふぅん……」
夕希を品定めするように、カリナが、ねっとりと視線を巡らせた。気味の悪い視線には、夕希にも憶えがある。カリナがくれているもの――空手に対する肉体の実用性を確かめるものとは違うが、欲情をそそる恵まれた少女の身体に対するものと、同じような粘度を持っていた。
「佐藤先輩も、ゼミですか」
夕希の口から、自分でも驚く事に、そのような質問が滑り出した。
「私の事、知ってるんだっけ」
「千恵先輩から聞きました」
直接、顔を合わせたのは、部活動紹介の日と、コンビニでの一件であった筈だ。夕希は、それ以前から、瑞穂関連でカリナの事を知っていたが、カリナはそうではなかった。名前については、後で幾らでも――何なら、その場にいた瑞穂にでも聞けば良い――調べられただろうが、カリナと立場が同じであれば、夕希も千恵から話を聞けば、それで、不自然ではない。
「千恵から、ねぇ……」
訝るような視線が、夕希に刺さる。しかし夕希は、自分が見られているという以外の感情を、カリナに対して抱かなかった。
「まぁ、良いや。ゼミだっけ? まさか。この私が、そんなもの出る訳ないじゃん。言って置くけど、私、千恵と違って勉強出来るからね……」
ずぃ、と、カリナが夕希に顔を寄せて来た。後、二、三歩詰めれば、鼻が触れる位の距離だ。カリナが付けている香水と、汗の混じった匂いが、十二分に届く距離である。
夕希はカリナにそこまで接近されても、姿勢を崩さなかった。夕希と瑞穂は、テーブルを挟んで向き合い、カリナは夕希の右手から接近して来た。夕希はカリナの方に顔を向け、身体は瑞穂に向けたままだ。頭蓋骨を、頸骨を支点に若干、右斜めに動かして、カリナと見合っている。頸から下は、カリナには全く興味を示さないかのように、すぅっと背筋を伸ばしていた。
パーソナルスペースというものがある。その広さは個人差があるが、他人に近付かれると不快に感じる空間であるとされており、親密な相手程その距離は狭く、苦手とする相手程その距離は広い。
夕希などは、家族や千恵などの力神会の同門たち以外には、余り距離を詰めさせたがらない。一メートルを切られてしまうと、自然と後退ったり、横に移動したりする。顔を近付けられる事など、最も嫌う事である。
その夕希が、カリナが、自らのパーソナルスペース――しかも、親しい間柄の人間にのみ許される密着空間に侵入する事を、許している。四月の頃からは、考えられない事であった。
「……怖いな」
カリナが漏らした。夕希は、眉を寄せる。
「えぇっと、何て言うんだっけ、あんた。ほし……星崎?」
「星沢です」
「そうか、星沢だ。星沢夕希」
カリナは夕希のパーソナルスペースから離れ、一メートルと十数センチは距離を取った。夕希が、カリナに対して取って貰いたい距離より、少し近いと言った所だ。
「怖い事しないでよ、夕希ちゃぁん」
奇妙な猫撫で声で、カリナ。
「怖い事……?」
「危なかったなぁ、今のは。もう少し近付いてたら、何が飛んで来たか分からない」
「――?」
「生意気になったね、あんた……」
「生意気、ですか」
「あの時は、もうちょっと、可愛げがあったんだけどな」
あの時というのは、コンビニで会った時か。カリナの言う可愛げというのは良く分からないが、カリナに怯えていた夕希が可愛かったという事であれば、今の夕希はパーソナルスペースに侵入されても、怯えを一つも見せない。
「それはちょっと、気に喰わないなぁ……」
ぞろりと、カリナは言った。瑞穂が、小さく身体を震わせた。夕希は、カリナから眼を放さなかったし、彼女の言葉に対してどのようにも反応しなかった。
カリナは、自分の事を真っ直ぐ見つめて来る夕希に、一つ舌打ちをして、更に離れてゆく。
「あんた、その態度、少し改めた方が良いね……」
そう言い残して、カリナは去って行った。
夕希は、呆れたような溜め息を吐いて、まだ残っている弁当に向き直った。
瑞穂は、悠然とした夕希の態度を見て、
「格好良い……」
と、呟いた。
「まるで、あの人みたいです」
「あの人?」
「朝香さん……」
「千恵先輩みたい? 私が……?」
夕希には、その自覚がなかった。
しかし、以前、千恵が夕希に言った言葉の意味を、今の時間で、何となく分かっていた。
ユーリ=リピストークが、怖くない――
そう言った千恵の、そう思ったであろう真橘の心が、何となく、夕希にも感得出来たのだ。
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