パート3

「話が、少しずれちゃったね」


 千恵は、夕希と共に、ベンチに座り直した。


「ユーリの話……真橘の話だった」

「――」

「あの子が、ユーリに、あんな態度を取った理由……」

「ユーリが、ギブアップしようとした事が、気に喰わなかったって事ですか?」


 東堂真橘は、常に、自分を人の下に見て置く。それが、自分を技術的に敗北させたユーリ=リピストークであれば、尚更であろう。そのユーリが自ら敗北を認めた事は、ユーリに勝利する事を目的として関節技を学んだ真橘にとっては、かなりのショックだったという事だろう。


「心が折れなければ敗けじゃない。心が折れるってのは、自分の敗けを認める事だ――」

「戦わない事は、敗ける事……?」

「そ。勝手な話でしょ」

「――」


 勝手と言えば、確かに、勝手だ。


 あの試合の中で、ギブアップ以外の選択肢が、そうあったとは思えない。マウントを獲られ、一方的に上から殴り続けられる。逆転のチャンスはない。


 真橘がそういう状況になって、ギブアップをしないのは本人の好きである。気を失うまで、殴られ続ければ良い。ギブアップをする事が心の敗北であると思っているのなら、降伏などせずに、そのまま、後遺症が残るまで頭を殴打されれば良いのだ。


 が、それを人に押し付けるのは、自分勝手過ぎる。


「それと、もう一つ」

「もう一つ?」

「ユーリは本来、真橘と同じ側の人間だったんだよ」

「同じ側!?」

「ギブアップなんか、したがらない、敗けず嫌いな格闘技バカ」

「――」

「真橘が許せなかったのは、そんなユーリが、ギブアップしようとした事」

「――」

「困った話だよねぇ、自分の理想とちょっとでも違ったら暴れそうになるとかさ」


 けらけらと、千恵。


「東堂さんの場合、笑い事じゃ済まない気が……」

「或る程度は、弁えてるから、多分、大丈夫さ」

「はぁ……」

「ユーリに言われるまでもなく、私は、真橘の事を信用してるから」


 ユーリの発言を根に持っているようで、千恵は顔を歪めて吐き捨てた。

 そう言う千恵を、彼女の向こうにある真橘の姿を、夕希は、複雑そうに見つめていた。


「あらら……」


 千恵は言った。


「若しかして、夕希ちゃんの憧れ、打ち砕いちゃったかな」

「ん……」

「真橘の事」

「い、いえ……」


 そんな事がないと言えば、嘘になる。


 夕希は、真橘の事をテレビの画面越しにしか知らない。ストイックな求道者という面では、確かに夕希の思う通りの人物ではあったが、強さへと執着する余りに自身の評価を低くする陰湿な側面の事など、考えもしなかった。


 が、それを否定する気はない。テレビで華やかな面ばかりを強調するのは、当たり前の事だ。わざわざ人の脛の傷を見せびらかすような事はするべきではない。誰だって持っている筈の暗黒面をほじくり出して、晒し上げる必要はないのだ。


 だから、情報源をテレビにしか持たない夕希は、液晶以外の東堂真橘がいる事も納得していた。


「ふむ……」


 ふと、千恵が、意味深に頷いた。


「あの?」

「いや……夕希ちゃんの性格が昏いのは知ってたけど、それ以上にドライなんだね」

「く、昏い?」

「失望がない……」

「失望、ですか? ……え、な、何の事です?」

「真橘の事だよぅ。真橘に憧れてる割には、真橘が自分の理想通りじゃなくっても、そんなに見方を変えたっぽくは思えないしね」

「それは――私は、東堂さんの事、殆ど知りませんから」

「知らないなら、その知らない部分を、自分の理想で勝手に埋めちゃうものだろうけどね」

「――」

「それがないんだなぁ、夕希ちゃんは。一歩、引いてものを見られてる訳だ」

「――」

「理想は理想そのままに、現実は現実そのままに……」

「……それは、普通の事じゃないんですか?」

「残念ながら、それは正しくはあっても、なかなか出来るものじゃあないんだな」

「――」

「凄いな、夕希ちゃんは……」


 千恵が、薄く笑った。夕希は、どういう顔をすれば良いのか、分からない。自分が当たり前だと思っていた事が、さほど、周りにとって当たり前でもなく、人から見ればそれが賞賛の対象になる――それが、分からない。


「そ、それよりも」


 夕希が、話題を変えた。


「ユーリが、その、変わってしまった……で、良いんですか。その理由……」

「バーリトゥードトーナメント」

「準優勝だったんですよね?」

「つまり、敗けたって事だよ」

「敗けた……」

「真橘が、ユーリに敗けて関節技を学び始めたように、ユーリは、そこで敗けて、真橘と同じ舞台から降りたんだ」

「武術の?」

「強くなる事……」

「――」

「怖くなかった」

「怖い?」

「ユーリが、さ。三年前に会った……まぁ、私は、見ただけだけど……、あの時より、技術的には巧くなっていたよ。でも、怖くはなかった」

「――」

「あの時は、怖かったよ。だってさ、技を極めると同時に、相手の腕をぶち折れちゃうんだよ。平然とした顔でね」

「それは、確かに、怖いですね」

「今は、それがない。戦わなかった私が言うのも何だけどね、真橘は、何倍もそれが分かってる筈だよ」

「どういう事ですか?」

「――それは、教えられないな」

「えっ」

「本当なら、ユーリが怖くなくなったって事も、教えるべきじゃない。夕希ちゃんだから教えたんだ。夕希ちゃんなら、私の言葉を言い触らさないって、分かるからね」


 千恵が、夕希の背中を叩きながら言った。


「後の事は、夕希ちゃんが、自分で気付く事だよ」

「……押忍」


 そこで、話は終わった。


 夕希が千恵の言葉の真意に気付くまで、そう時間は掛からなかった。





 気付けば、季節は夏になっている。

 毎日のように蒼い空からは太陽の光が降り注ぎ、地上を焦がそうとしているようであった。

 木の葉や、道路や、建物や、池などといった色とりどりの地上と、蒼空と白い雲との間で乱反射する光が、地獄のような熱を孕ませている。


 夕希にとって、高校生活初めての夏休みであった。三ヶ月経っても、クラスと馴染めていたとは言えなかった夕希であったが、彼氏だ彼女だ何だと言ってリア充がどうこうと騒いでいる周りと比べれば、自分には恋人こそいないが、かなり充実した生活を送っていたように思う。


 元の人嫌いな性格に変わりはないものの、学校で千恵以外では一番言葉を交わす事が多い担任の先生からは、学期始めの二者面談の頃と比べて、見るからに明るくなったと言われていた。


 そんな夕希は、この日、学校のゼミに来ていた。自由参加の勉強会のようなもので、基本三教科(国語・数学・英語)の内容について、一学期の内容の復習と、二学期の内容の予習を、少しだけやる。一コマ九〇分で、三コマ入っている時は、昼を跨ぐ事になる。


 成績を落とさない事が、空手を続ける条件であったから、夕希は成績の維持をするのに役立つであろうゼミには参加した。その日は一限から、国語、数学、英語の順番であった。


 現文と古文が半々で、間に五分ばかりの休憩が挟まっている国語は兎も角、同じ公式を使った問題を基本・応用共に延々とやらされる数学を乗り越えて、夕希は、昼食を摂ろうとした。昼休みに充てられているのは、一二時二〇分から一時までの間である。その間に、夕希は弁当を広げようとした。


 と、その夕希を、呼び止めた者がある。木村瑞穂であった。ゼミは、各クラスの参加者の二、三名程をより集めて、同じ教室で行なわれている。その中に、夕希と同じくゼミに参加していた瑞穂がいる事は、不思議ではなかった。


「あの、星沢さん。良ければ、一緒に、ご飯、食べない?」


 瑞穂が、ちょっと舌っ足らずな口調で、誘って来た。

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