もう……怖くない

パート1

 三年前――

 真橘と千恵は、一四歳であった。

 その頃は、まだ、千恵の母親は再婚しておらず、姓は“佐藤”であった。


「世間で言う所の、“中二病”って奴だったんだよ」


 千恵は、恥ずかしそうに言った。


「中二病……ですか?」


 夕希は頸を傾げながらも、やたらと装飾の多い革ジャンやコートを着て、眼帯やサングラス、シルバーアクセサリーなどをじゃらじゃらと身に着けた真橘と千恵の姿を想像してしまった。恐らく、甲に鉄のプレートを乗せた指抜きグローブをし、ブーツの底には鉄板を仕込んでいる。


 そういう格好で、カフェテリアに居座り、組んだ足をテーブルの上に乗せ、コーヒーをブラックのままのみ、洋楽を聴きながら、アメリカをディスっている二人の姿が頭に浮かんで来たので、思わず、引き攣った笑いを浮かべた。


「いや、そういう事じゃなくてさ……」


 千恵は、夕希の表情から彼女の想像を何となく察して、否定した。


「つまり、その、何て言うのかな……自分の身の丈に合わない事ばっかり、やってたんだよ」

「身の丈に合わない事……」

「宮本武蔵とか、姿三四郎だな――」

「え⁉」


 宮本武蔵。

 姿三四郎。


 どちらも、日本で暮らしていれば、聞いた事がある名前であろう。


 宮本武蔵は、江戸時代の剣豪であり、二天一流の祖として、『五輪書』を残した。当時の日本人としてはかなり大柄であった事や、大小二刀を自在に操り、六十数度の戦いに於いて無敗、その中には、ただ一人で一つの大道場の門弟を皆殺しにしたという逸話もある。こうした事から、吉川英治氏の『宮本武蔵』を始めとして、多くの創作の題材として扱われていた。


 姿三四郎については、小説『姿三四郎』の登場人物であり、柔道の達人だ。講道館の常田富次郎によって執筆されたそれは、講道館柔道の優位性を示す為の作品であった。柔道家の姿三四郎が、悪党の用心棒を生業とする空手家などを倒して回る活劇で、モデルは“猫の三寸返り”で有名な西郷四郎であるとされている。


 武蔵にしても三四郎にしても、創作上の事しかしらない。だが例えフィクションの人物であっても、ストイックに自分を追い込み、それぞれの武道に生命を懸けた者たちである。


「真橘も、私も、宮本武蔵や姿三四郎になりたかったんだ」

「武蔵や、三四郎に……」

「強くなりたい……」


 千恵は、遠くを見つめて言った。


「私は、真橘に憧れて、そう思った。……真橘が何を思っていたかは、知らないけどね。でも、私も、真橘も、同じだった。強くなりたかったんだ。それで、その強くなる手段が、武蔵とか、三四郎みたいな……武者修行みたいな事しか、思い付かなかった」

「と、言うと?」

「前に、武道と武術の違いについて、言ったよね」

「はい」


 武道とは、武術を以て人道を学ぶ事で、武術とは、人を殺す為の武器術であるという話だ。


「強くなり過ぎたのさ」

「え?」

「真橘がね、強くなり過ぎたんだ。でも、あの子の性格は、あの通りだからさ」


“もう駄目だと思えるなら、まだやれる”

“嫌だなと思った時こそ、我慢する”


 千恵は、この言葉を、真橘から受け継いでいる。真橘も、この言葉を使うようになったのは、別の人間からの影響であると言う。


 しかし、真橘がこの言葉を受け入れる事が出来たのは、彼女の中に既にそうした思想が出来ていたからであり、それを具現化させたのが、この言葉であったのだ。


「だから、強くなりたいって思っていたのに、強くなった事を認められなかった。いや、認めたら、もう、そこで終わりだと思っていたのかもね」

「終わり?」

「もうそれ以上、強くなれないって事。矛盾してるけどさ……」

「――」


「そういう子が、辿り着いてしまったのが、武道……今までやって来たのは、ただの競技であって、武術の本質からは遠退いてしまっているものであるっていう事。だから、その武道で強くなり終えてしまったのなら、その本質に挑まなくちゃいけない、ってね」

「本質って……」

「殺人の技術さ。でも、殺すだけが武術じゃない。守る事も、武術だよ」

「守る?」


「自分や、自分の大切な人に危機が迫った時、自分とその人を守り切れる技術。それを磨く為に、それこそ宮本武蔵や、姿三四郎の真似事を、やらかしてたんだ」

「――」

「野試合……」

「野試合って……!?」


「夜夜中に、町角ぶらついてさ、チンピラ共に喧嘩を売らせて回ってたの。こっちから仕掛ける訳じゃなくて、向こうから因縁付けさせてね、こっちに正当防衛の大義名分を作って、襲い掛かって来たチンピラたちをぶちのめす――そういう事をやってた」

「ち、千恵先輩が?」

「真橘と一緒にね。いや、真橘が最初だったな。真橘がやるって言うから、私がそれに付いて歩いてたんだ。何人かでたむろしてる連中の前に、こう、脚を出してさ、“やらせろ”って言って来るのに、“嫌だ”って答えて、“人が下手に出てりゃ”って怒らせて……ばぁん」


 “ばぁん”と言った時、千恵は、右拳を前に突き出した。その手を下して、左の掌に包んだ。


「ユーリと出会ったのは、そんな時……」


 或る夜――


 いつものように、町を徘徊していた時だ。真橘は月照会の、千恵は力神会の稽古を終えて、それから家に帰るまでの時間に、喧嘩を求めて夜の町を彷徨っていた。


 すると、人気のない場所から、言い争うような声が聞こえて来た。何かと思って覗き込んでみると、一人の少女が、二人の男に絡まれている所であった。


 こうした状況も、真橘と千恵の望む所である。自分たちに手を出させるよりも、他人が危険な目に遭っている所に割り込んでいった方が、こちらの正当性が保証されるからだ。


 このような場合、真橘は、何やら気障な台詞を言ったり、煽るような態度を取ったりして、相手の神経を逆撫でる。


 この時もそうであった。どのような台詞で、どんな風に格好良く登場しようかと考えている間に、状況は動いていた。


 少女の方が何か言ったらしい。それに対して、絡んでいる男の方が頭に血を上らせ、胸倉を掴みにいった。その掴みにいった手を獲って、少女は男に跳び付いて投げ飛ばし、肘関節を破壊してしまったのである。


 サンボの跳び付き腕十字であった。


 もう一人の男が驚いて、言葉を失っている。その間に、金髪碧眼の少女は立ち上がり、颯爽とその場を後にした。


「その頃は、私も、真橘も、余り柔道について詳しくなかった。いや、知ろうともしなかった。だって、空手……いや、打撃だな、打撃技の方が、柔道やサンボのようなサブミッションの体系よりも強いと思ってたんだ」


 それについては、何度か、聞いていた。


 打撃系格闘技は、拳を放つという動作が、即ち、相手を叩くという結果に繋がる。そのパンチが、巧い具合に急所に入ったり、その威力が人間の行動を停止せしめるものであったりした場合、その一発で決着が付く。


 投げ技や関節技は、極まればそれで決着だ。硬い地面に投げ落とされたり、動く為の関節を破壊されたりするからだ。しかし、その技を極める為に、相手と組んで重心を崩す、という作業が必要になって来る。


 この、組み・崩し・投げるというテンポが、打撃技にはないので、投げたり極めたりするよりも、早く相手を攻撃出来る。だから打撃技の方が、投げ技やサブミッションよりも強い。


 空手にも投げ技や関節技はあるが、それは、打撃の為の牽制や繋ぎであって、最終的にとどめを刺すのは突きや蹴りである。


 そういう話だ。


「だから、あれを見た時には驚いたね」


 千恵は、不意に立ち上がり、夕希を呼んだ。芝の地面まで歩いてゆくと、千恵は、地面の硬さを確かめ、夕希に傍に寄るように言った。


 そうしていきなり、横から左腕を夕希の右腋の下に刺し込んで、ズボンのベルトを掴み、腕を持ち上げた。これで、夕希の肘関節が極まった事になる。


「いっ……」


 当然の反応として、夕希が、身体をびくんと跳ねさせる。すると、千恵は夕希の足を刈り取って、前方に回転しながら投げ飛ばし、夕希の右腕に両足を絡め、肘を極めていた。


 夕希が仰向けになると、地面には、二つの身体が作る大きな十字架が浮かび上がっていた。夕希の顎の下に、千恵の脚が通っている、肘は、千恵の恥骨によって押し上げられ、手首は両手で握られていた。


 千恵が腰を反らせば、てこの原理で肘が破壊される。その破壊の予感を、夕希は、ちりちりと炙られているように感じ取った。

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