パート5
真橘とユーリの試合が、第二ラウンド二分五五秒、十字絞めによって真橘の勝利で決着した後、一同はその場に整列、正座している。
サブアリーナの上座に簡易型の神棚が設けられ、その前に、千恵を中心に、真澄と絵梨佳が座している。指導員たちと向き合うように、それら以下の帯の者たちが、帯の色順に並んでいた。神前に向かって左側から、級が上で、経歴が長い順であるので、夕希が、最後列右端という事になる。又、ユーリは医務室に運ばれており、真橘は、神前から見て左側、門弟たちの斜め右前に座っていた。
稽古始めと終わりには、こうして整列して、五省の句を唱え、黙想をした後に、指導員からその回の稽古についての総括が述べられる。
夕希の事については、始めて半年に満たない夕希が、あそこまで善戦出来た事を讃え、或る程度の所までは、稽古への意識で実力を引き上げられると告げた。又、足並みを揃えるようにして稽古をして来たのだから、誰もが強くなれる筈であると、千恵は纏めた。
そして、真橘とユーリとの試合に関しては、参考に留めて置くように程度で、深い所まで掘り下げようとはしなかった。但し、
「なるべく、今日の結果については、口外しないように」
と、その点は強調した。
「罷り間違っても、あのユーリ=リピストークは、たかだかタレントもどきのアマチュア空手家に敗ける程の実力しかなく、現在の総合格闘技のレベルが低いなどとは、吹聴しないように」
千恵はそう言った。真橘は、“タレントもどきのアマチュア空手家”と呼ばれた事に苦笑いを浮かべてはいたが、千恵の言葉は、真橘の想いでもあった。
「良いかな? 週刊誌や、ネットで話題にでもなっているのが判明したら、ここにいる全員、私が直々に処断しにゆく……ので、その心算で」
最後の言葉は、冗談めかして言っており、真澄と絵梨佳が小さく笑い声を上げたので、その場も少しばかり愉快な雰囲気となった訳であるが、千恵が本気でそのように言っているのは、誰の眼にも明らかであった。
「押忍!」
と、一同が気合を込めて、返事をする。
「じゃあ、東堂先生、何か一言」
と、千恵。
「えー……」
見るからに不満そうな顔をする真橘。千恵がじぃっと見つめて来るので、渋々といった表情で立ち上がって前に出て来ると、
「まぁ、皆さん、頑張って下さい」
と、一言だけで、話を終えた。
そうして、挨拶の後、稽古の時間が終了したのである。
掃除と着替えを終えて、夕希は、ユーリを見舞いに医務室へ向かう千恵と真橘に付いて行った。医務室では、以前、夕希が一晩中サンドバッグを叩き続けて倒れた時に、真橘によって移動させられたベッドの上で、ユーリが蘇生した所であった。
「敗けたのね、私」
ユーリは、真橘に言った。
真橘は、それまでは風のない海面のようであった顔を、ぐっと歪めた。怒りと哀しみのない交ぜになった、巧く言い表す事の出来ない感情がそのような表情を作る事を、夕希は知っていた。
「何で、あんな事をしたの、ユーリ……」
真橘が、絞り出すように、言った。
「あんな事……?」
夕希が小声で、千恵に訊いた。
ベッドの上でユーリは、駄々っ子を見る母親のような視線を真橘にくれると、
「あそこから脱出する手段は、私にはなかったわ」
「だからって……」
「マキだって訊いたじゃない。“ギブアップ?”って」
「――」
「だから、私は、敗けを認めようとしたのよ」
「――ユーリ……」
「でも、貴女が聞き入れてくれなかったお陰で、何とか助かったわ。まさか、世界二位のロシアの妖精が、日本のアマチュア空手家にタップするなんて、何て言われるか分からないわ」
真橘が一度、攻撃の手を緩めたのは、ユーリがタップをしようとしたのに気付いたからである。だが、真橘はユーリに降伏の合図をする事を許さず、襟を取って、頸動脈を絞めた。
ギブアップで敗けを認めるよりも、脳への酸素の流入がなくなった事によるノックアウトの方が、敗北しても仕方がないという印象になる。
「そうじゃない……!」
真橘が、ベッドの傍まで歩み寄ってゆき、ユーリの襟ぐりを掴み上げようとした。その手を、千恵が掴んで止めた。
「真橘っ」
「何で、何でそんな簡単に、敗けなんか認めちゃうのさ……」
「やめなって、真橘!」
「違うでしょ、そうじゃないでしょ! ユーリは、ユーリ=リピストークは……」
「真橘ッ!」
千恵が、とうとう真橘を羽交い絞めするようにして、大声を張り上げた。それでも、真橘は千恵には視線を向けず、ユーリを、泣き出しそうな眼で睨み付けている。
夕希は、真橘がこうやって感情を剥き出しにする光景に、驚きを禁じ得ない。
「やめなよ、真橘。そうしなくちゃ、あんた、ユーリの事……」
そこから先は言わなかった。幾ら真橘でも、というようにも思うし、真橘ならば或いは、という風にも思う。それを、真橘の前ではっきりと言いたくはなかった。
「……ご免」
それで、真橘も、自分が熱くなり過ぎていた事に気付いたらしい。ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「その、朝香さん」
「……何?」
「悪いけど、二人にしてくれないかな」
「手足の関節、外さして貰うけど」
「もう暴れないから」
「どうしますか」
千恵が、ユーリに訊いた。
「大丈夫よ。マキを信じて上げて」
「……分かりました」
千恵は、眉を寄せながらも頷いて、夕希と共に退室した。
時間としては、丁度、昼時である。千恵と夕希の無差別級・真剣勝負ルール、真橘とユーリのバーリトゥードでの試合と、いつもよりも密度は高かったが、ローテーションしての組手をやらなかった為、稽古の上がりはいつもよりも少し早い。
そこに、医務室でユーリと真橘が話しているのを見た事があって、時間が調節された。
「夕希ちゃん、お昼、食べようか」
千恵が誘った。
「ほら、前、バイキング行けなかったじゃない? その、埋め合わせと言うか」
「う、埋め合わせって……するのは、私の方です! 私が、迷惑掛けちゃったんですから」
「いや、気付かなかった私が悪いんだって。ほら、今日は、奢るからさ。前、真澄さんにクーポン譲って貰ったんだよ」
という事で、その時は行けなかった、“エネルギッシュマン”に向かう事になったのである。
席を取ると、千恵が、率先して肉を採りに行った。
「夕希ちゃんは、自分の好きなの採って来な? 私がお肉は焼いて置くからさ」
「え、でも……」
「ほらほら、今日は疲れたでしょ? だから、いっぱい食べて、補給しないとだし!」
と、背中を押されて、夕希は自分の食べる分を採った。パスタ、寿司、たこ焼き、から揚げ、串カツ、サラダ、フライドポテト、そして、好物のナマコもあったので、皿に盛って来た。
すると、千恵がもう既に肉を採り終えており、それ所か、生食が平気ならばもう食べている位の加減にまで火を通している。仕事が速い。
「あ、あの、千恵先輩……」
「おっ、夕希ちゃん、良いタイミングだね。これ、もう少しで焼けるからねー」
「先輩、その、私に気を遣っていませんか?」
「……そりゃあ、まぁ、幾らかは、ね」
「――」
「皆の前で、あれだけやっちゃった訳だし、さ」
夕希を考えての事であるとは言え、いきなり黒帯の自分と試合をするように指示――命令したのである。その試合の中で、戦いを放棄し掛けた夕希に、一方的な攻め方をして、挙句、逆転されそうになったら奥の手であったカポエイラの技を使ったのだ。
千恵はその事に、負い目を感じていた。
「千恵先輩は悪くありません。私が、あんな事を軽々しく言ったから……」
自分は果たして強くなれているのか。
そんな事を、ぽろりと漏らしてしまった事から、あの試合は始まったのだ。
「済みませんでした、千恵先輩。千恵先輩や、多田さんや、高坂さんにも、失礼な事を……」
「いや、平気だって。寧ろ、私こそむきになっちゃったみたいなものでさ」
「でも、むきになったって事は……」
こうした話をしながら、二人は食事をした。
或る程度、空腹も落ち着き、甘いものや冷たいものが欲しくなった辺りで、夕希が、
「そう言えば、さっきの、東堂さん……」
と、口を開いた。
「あー、あれか」
千恵は、頭を掻きながら言う。
「あの子、結構、熱くなる性質でね。いや、普段は明るいんだけど、本質は、根暗で、後ろ向きな空手オタクだから」
「根暗……」
「うん。それでも、滅多にああはならないんだけどね」
「リピストークさんとは、それだけの関係があるって事ですよね」
「そうなるね」
「千恵先輩は、知ってるんですか、あの二人の事」
「――店、出ようか」
千恵が席を立った。
会計を済ませて外に出て、暫く歩く。
国道の横道に入ると、飲食店やアパレルショップ、パチンコ店、一〇〇円ショップなどがぽつぽつと並ぶ通りから、畑や田んぼが広がる平坦な光景が見える。駅周辺と比べると大きな変化はないが、瞬く間に蒼と緑の比率が増えていった。
近くに共同墓地がある所まで歩き、道路を挟んで向かい合った大きめの池がある広場にやって来た。池には、白鳥や黒鳥が浸かったり、そこから飛び上がったりしている。すぐ傍に人家はあるが、余程の大きな声で話さない限りは、会話を聞かれる事はあるまい。
池の畔に東屋があり、そこのベンチに腰掛けた。
テーブルを挟んで、一対のベンチだ。片方が池に向かっている。その、池に向いている方のベンチに、テーブルに背中を向けて、座った。
「真橘と、ユーリが初めて会ったのは、三年前の事になるかな……」
千恵が語り始めた。
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