パート4

 インターバルで、互いにマットの隅に移動する。


 対角線上にいる真橘の背を見ながら、ユーリは用意していたペットボトルの水を飲んだ。


 真橘は水分補給をしなかった。敢えてそれらしい行為を真橘の行動の中から見付けるとすれば、舌なめずりをした事と、腹式呼吸をした事である。舌なめずりは、汗に含まれている塩分を摂取する為だ。腹式呼吸は、体内に貯まった疲労と老廃物を、二酸化炭素と共に吐き出し、新鮮な酸素を取り入れるものである。


「莫迦だな……」


 千恵が呟いた。夕希が、千恵の顔を眺める。


「殺し合いじゃないのに……」


 その千恵の言葉を理解出来る程、夕希は武の道に入り込めてはいなかったが、千恵が真橘を“莫迦”と称した理由は、何となく察する事が出来た。


 空手の試合の場合、インターバルはない。三分間で決着が付き、そうでなければ二分と一分の延長戦を行なうが、その間にも休む時間は入れない。技ありやスリップ、場外や危険行動などの反則行為で、指導が行われる時はタイマーを止めるので、ロスタイムもない。


 しかし格闘技では、それがある。三分間のラウンドを、決着が付かない限りは、規定された回数だけやる。その間にはインターバルが設けられる。このインターバルの間に、汗を拭いたり、水分を摂取したり、怪我をした場合には患部にワセリンを塗って傷を塞いだりする。


 それは権利である。それが、選手の体調を万全のものとして試合場に立たせる為に必要であるから、ルールで認めている権利なのである。


 敗けた選手に、口の中が乾いていた事や、汗で滑って技を掛けられなかった事や、出血が眼に入って視界が封じられた事などを、敗けた言い訳に使わせない為のものだ。水を飲んでも良いのに、汗を拭っても良いのに、傷口を塞いでも良いのに、それをしなかった。それをせずに敗けたというのなら、それはしなかった方が悪い。


 又は、自分は空手家で、そうした試合中の水分補給はしてはならないのであるから、水は飲まなかった。だから敗けてしまったのだ――邪推すれば、そういう逃げ道を自分で作っているようにも見える。


 だから、千恵は、


“莫迦だな……”


 と、言ったのである。


 インターバルが終わると同時に、絵梨佳が開始を告げた。第二ラウンドの三分間が始まる。





 セコンドはいないが、セコンドアウト――コーナーから離れた真橘とユーリは、構えを採りながら、マットの中央に向かって歩を進めてゆく。今度は真橘も拳を上げて、フットワークを使って接近していた。


 互いに、互いの間合いに入る事を警戒して、試合場に円を描くような動きになる。が、それは交わらない円ではない。足を横に滑らせるたび、二人の身体の距離は近付いてゆく。


 動いたのは、やはり、ユーリが先であった。


 左ジャブ。


 牽制の為の拳の一発目を、真橘が、左腕でパリングした。

 その左袖に、ユーリの右腕が獣の牙のように迫った。


 重心を崩そうとするユーリに、真橘が堪える。ユーリは脱力し、ゆるりと真橘の方へ進んで行った。


 真橘の身体の外側から、ユーリの右足が迫った。延髄を狙った蹴りだ。相手の左袖を右手で握ったまま右足でうなじを狙う事など、普通は出来ない。可能であっても、威力を発揮出来ない。しかしユーリの柔軟性が、それを可能にする。


 真橘が身体を沈めた。真橘のポニーテールの先を、ユーリの脛が掠めてゆく。


 ユーリの右手は、まだ真橘の左袖を握ったままだ。ユーリは、蹴りが通り過ぎる勢いを利用して左足を跳ねさせ、真橘の左腋の下に潜らせた。このままでは、ユーリの左脚と右手に、左腕を捉えられ、彼女の体重と回転力に逆らえずに投げ飛ばされてしまう。


 真橘は自ら飛んで、投げられるタイミングをずらした。真橘の方が僅かに早く落下して、腕を引っこ抜きながら立ち上がり、真橘を追って来たユーリの顔面を狙って蹴りを繰り出した。


 ユーリのそれも速かったが、真橘の蹴りも速かった。そして、重かった。


 ユーリの蹴りは鞭である。馬の尻を打って加速させるものであり、罪人の皮膚を打って痛みでショック死させるものだ。


 真橘の蹴りは巨大な鉈であった。その重みで加速させ、腕を、脚を、胴体を、頸を切り落とすものであった。


 ぶぅんっ!


 という、風の唸りが聞こえた。


 銀色の風が、ユーリの額を掠めて飛んでゆく。

 ぶっつりと、ユーリの白い額に、赤い口が開く。


 真橘は、後退して膝立ちになったユーリに、左の下段突きを打ち込んで行った。


 が、その拳が、ユーリの寸前で止まる。


 追い討ち――寸止め⁉


 空手の試合であれば、これで、技ありを獲れる。

 しかし、これはバーリトゥードだ。


 空手出身の格闘家は、総合の試合であっても、寸止めの動作をする事がある。慣れ親しんだ空手の癖が、つい、そうした場所でも出てしまうのだ。


 その、眼の前で止まった真橘の手に、ユーリが手を伸ばした。


 次の瞬間、真橘の右の掌底が、野球で言うアンダースローのような軌道で、ユーリの顔を横から叩いた。


 ユーリの瞳が、一瞬、瞼の裏側に消える。

 そのユーリに、真橘は抱き付いて行った。


 意識を回復したユーリが、真橘に対し、ガードポジションに入る。

 が、真橘は何て事ない風にスイープして、登頂を完了する。


 マウントポジションだ。


「ギブアップ?」


 真橘が訊いた。


「ニェット」


 ユーリは答えた。ロシア語で、“いいえ”という意味だ。


 真橘は、容赦なく掌底を落としてゆく。フック気味の熊手打ちが、ユーリの左の側頭部を叩いた。


 次は、左だ。

 次は、右であった。


 真橘が、交互に掌底を打ち込んでゆく。

 ユーリが、両腕で頭部をカバーした。


 そのブロックの上から、真橘は掌底でユーリを叩く。


 ユーリは腰を跳ね上げて、真橘を振り落とそうとした。しかし、真橘はユーリの身体を、騎手のように巧く乗りこなし、決して下山しようとはしなかった。


 ユーリがギブアップをしないのであれば、こうして、殴り続けるしかない。掌底を打ち込むのをやめて、それでも、ユーリが抵抗しようとするのなら、攻撃を続けるしかない。


 第二ラウンドの残り時間は、二分以上ある。


 その間に、ユーリが逆転か降伏をしない限り、真橘は、手を止める心算はないだろう。或る種、凄惨とも言える光景が、そこには描き出されてしまう事になる。


 互いにそうした覚悟は決めているとは言え、一〇代の少女たちが、片や馬乗りになって相手の顔を一方的に叩き、片や他人に跨られて顔面を殴打され続けているのだ。


 眼を反らす者も、当然、いた。


 最も近くで見ていた絵梨佳は、この場の発言力のトップである千恵に、眼をやった。


 止めるべきか――と、その眼が訊いている。


 千恵はどうとも言わなかった。苦汁を飲むような顔を浮かべるのを、どうにか我慢しているという表情だ。残酷と言っても過言ではない光景を止めるべきだという指導員としての千恵と、真橘とユーリの意思を尊重すべきだという武道家としての千恵が、せめぎ合っているのだ。


 真橘が、何度目かの手を振り上げた時、ふと、その動きを止めた。

 ユーリのガードが下がり、手が、真橘の身体に触れようと、震えているのだ。


 真橘は一瞬、泣き出しそうな顔を作ると、両手でユーリの上衣の襟を掴み、交差させた。


 十字絞め――右手で左の、左手で右の襟を掴み、腕を交差させる事で、相手の襟を使って頸動脈を圧迫する、ジャケット着用の武道・格闘技では最もポピュラーな絞め技であった。


 ユーリの手が、真橘の手を掴む。

 真橘が、ユーリの頸を絞めた。


 一秒、二秒、三秒……


 タイマーが止まる五秒前、ユーリは、失神おちた。


 金の髪が、マットの上に放射状に広がった。

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