パート3

 真橘は、半身になって、腰を落として構えた。左右のどちらも手刀を作り、左手は前に出して立て、右手は鳩尾の前で掌を上にして寝かせている。


 ユーリは、両手で顔をカバーし、両足の踵を浮かせて、軽やかに構えている。


 真橘の姿は、総合格闘技では滅多に見る事がない。空手の受けの構えだ。あらゆる攻防が錯綜するバーリトゥードの場で、そうした構えを採る選手は殆どいない。その構えでは対応し切れない技術があるからだ。


 しかし真橘は、その構えを採っている。自らが空手家であるという矜持なのか。


 真橘とユーリは、互いに、すぐには動かなかった。

 空気が張り詰めている。


 夕希はこの沈黙に耐え切れずに、自分から千恵に突っ掛けて行った。

 しかし、開始のホーンと共に突っ込んでいった選手が、顔面への正確なカウンターパンチの一発で、走り込んで行ったその勢いのままに倒される事もある。

 受け――後の先返しを狙う真橘を、ユーリが警戒しているのだ。


 そのユーリが纏っているのは、冷気である。かざした手が瞬時に凍て付き、体温が空気中に溶けて、血液が血管の中で赤い霜柱となってしまいそうな闘気である。蒼い瞳が真橘を捉え、シベリアの冷たい風となって、相手を飲み込もうとしているのだ。


 動かない真橘は、凄まじい熱を孕んでいた。氷河を溶かす熱である。森林を焼き尽くす炎である。ひとたび動き出せば、触れずとも全ての物質の分子・原子を揺さ振ってしまいそうな、燃える蛇の舌であった。それは古の昔、青木ヶ原の樹海を作り上げた、富士の噴火である。


 自身に照準を合わせない為のユーリの細かい動きは、威風堂々と構える真橘が皮膚の下から滲ませる炎の熱の為、氷の分子が振動している所為であるようにも見えた。


 巨大な氷の塊が、白い靄を発生させる。それを溶かすように、赤い炎がちろちろと揺らめいていた。


 冷気と熱風が真正面から激突し、その中間に真空地帯が出来ている。そこに入り込めば、瞬く間に全身から酸素を奪われ、黄色い血液を撒き散らしながら息絶える事になるであろう。


 誰もが息をする事を忘れ、動かずに、けれども戦っているその光景に、魅入っていた。


 夕希と千恵の激しい攻防は、周りの人間をもヒートアップさせた。しかし、こうした静かな戦いは、観る者の心に火を灯す。埋火である。眼に見える炎よりも危険な、密やかなる炎であった。


 タイマーの数字が素早く切り替わってゆく。構えて、戦況を動かさないまま、二〇秒が経過していた。しかし、動かない事へのブーイングはない。注意もない。動かない戦いがあるという事を、真橘とユーリは理解させているのである。


 三〇秒が過ぎた。

 三五秒が過ぎた。


 もう少しで、一ラウンドの四分の一が、不動のままに過ぎ去ってしまう。


 三六……

 三七秒。


 ユーリが動いた。


「し!」

「吩!」


 炎と冷気がぶつかり合い、爆ぜた。





 つ……


 と、氷上を滑るようにユーリが前に出た。そうして、流れるような動作で、ローキックを繰り出した。アイススケーターのエッジのように鋭い蹴りが、真橘の太腿を狙う。


 真橘は、ターゲットとされた左脚を、膝で折り曲げた。脛の下を、ユーリの右脚が通り抜けてゆく。そのユーリに向かって、真橘の身体が倒れ込んで行った。


 ユーリの左ストレートが、すぅっと倒れ込んで来る真橘の顔を狙う。 

 が、その前に、真橘の左手が軽くユーリの胸に押し当てられており、


「吩!」


 の、呼気と共に、握り込まれた。真橘の持ち上げられた左足はマットを強く踏み締めており、ユーリがパンチを打ち出す反動で後退していなければ、胸を強打されてダメージを負っていたであろう。


 とん、とん、と、ユーリが下がってゆく。構え直すその額には、汗が滲んでいた。


 そのユーリを前に真橘は、始まった時と同じように構え直している。一度は作った拳も、緩く開き、始めと同じく手刀として立てられていた。


 ただの一合――ともすれば、ユーリが攻めに失敗し、真橘が呆気なく迎撃した、と言うだけに見えてしまいそうな程であった。


 そうではない。


 ユーリの蹴りは、常人には躱し切れない速度で繰り出された。それは、彼女の股関節の柔軟性による。ユーリは、幼少期はフィギュアスケーターとしての教育を受けており、生まれた時から全身の柔軟性を培わされていた。足を、身体と平行に頭の先まで持ち上げる事が出来るばかりか、蠍のように、後頭部を足指で触れる事さえ可能である。


 そのしなやかな身体が繰り出す蹴りは、比喩ではなく鞭である。多くの選手は、その蹴りの速度に驚き、防御する事も出来ずにローを打ち抜かれ、その間に接近を許してサンボ技の餌食となった。


 それを、躱したのである。使用したのは波返しだ。ナイファンチの型にもあり、下段への攻撃を、脚を瞬時に持ち上げる事で躱し、同時に素早く移動して接敵する技術である。


 波返しを用いてユーリの間合いに入り込んだ真橘は、自分の重心を蹴るようにして壊した、不安定極まる片足立ちから立ち直る運動エネルギーを、ユーリへの攻撃に用いたのだ。ユーリの身体に触れた手はその瞬間にのみ握り込まれ、弛緩から緊張への一瞬の転換が、心臓を撃ち抜こうとしたのである。


 ただの一合、僅かな一瞬の中に、それだけの超高等技術が用いられていたのである。


 だから、数秒にも満たない刹那の経過に、ユーリは額に汗の珠を浮かべたのだ。


「ハラショー」


 ぽつりと、ユーリが言った。その唇が吊り上がり、蒼い眼に獣の光が宿る。


 す……と、真橘の左側に回り込んでゆく。そちらは死角になる。


 真橘は右側に回転し、右の踵を、背後に回り込んで来たユーリに打ち込んで行った。その後ろ廻し蹴りを、ユーリが身体を沈めて躱した。


 ユーリが真橘にタックルを仕掛けてゆく。持ち上がった右脚の付け根に身体を入れ込んでしまえば、真橘はユーリを攻撃出来ずに、押し倒されてしまうのだ。


 向かって来るユーリに、真橘は左足を跳ね上げた。顎を狙って来た中足を、ユーリが両手を交差させて胸の前で受け止めた。真橘は、宙に浮く事になり、更にアンバランスな姿勢となる。


 だが、真橘はそこから、もう一度右足で蹴り付けてゆく。いや、踵落としである。ユーリの頭部を上下から挟み込むように、先の後ろ蹴りに使った右足を打ち落としてゆくのだ。


 ユーリの右腕が、真橘の左脚に絡む。自分から後方に倒れ込んでゆく。更に、マットを両足で蹴って、真橘の左脚に巻き付ける。このまま倒れてしまえば、ユーリは真橘の脚の関節を極める事になる。翼を持った虎と、爪を得た蛇との戦いだ。


 真橘は右脚を振るって身体をひねり、左脚に巻き付いたユーリを振り払った。空中で錐揉み回転しながら着地する真橘に、起き上がったユーリが組み付いてゆく。真橘は、タックルを仕掛けて来たユーリを受け止め、前屈立ちの形でがぶり、転倒を防ぐ。


 ユーリの左肩が、真橘の胴体に押し当てられている。真橘は、右足を後方に伸ばし、耐えた。


 ユーリが真橘の左脚に両脚を絡め、真橘がユーリの頭部に肘を打ち下ろすのは、同時であった。同時であった為に、どちらも効果を発揮しなかった。


 ユーリは真橘を倒す為に重心を落とし、その落ちた重心の分だけ、真橘の肘が落ち切らなかった。下がってゆくユーリの頭があった位置で、最も威力を発揮するように落とされた肘が、しかし空を切り、ひたりと、ユーリの後頭部に宛がわれるに留まった。ユーリはそのまま、真橘をマットに倒してゆく。


 真橘が背中をマットに着いた。

 上がユーリ、下が真橘である。


 が、この時点では、どちらが有利であるという事は言えなかった。確かに、上になっている方に分がある事は違いがないが、真橘はユーリの右脚に両脚を絡めて倒れている。ハーフガードと呼ばれるポジションである。


 マウントポジション――所謂、馬乗りの状態については、次の三種に分けられる。トップポジション、クローズドガード(ガードポジション)、ハーフガード、これである。


 トップポジションというのは、上になっている者が有利だ。相手の身体を跨ぎ、両膝でボディを挟み込んでいる。この形に入られると、上の者のパンチは入るが、下の者からは攻撃が出来ない。パンチに腰が乗らない為、威力を発揮し辛いのだ。

 相手の脇腹を小突いて、嫌がらせをする事は出来るが、その間に顔面を殴られてしまう。こうなると一方的である。顔を殴られるのを厭って、亀の体勢になろうとすれば、相手は後頭部を殴り付けるし、少しでも間隙があれば、頸動脈絞めを狙って来る。


 次にクローズドガードというのは、下の者が、上の者の胴体に両足をクラッチしている体勢の事だ。マウントポジションから、上下を逆転させた形である。これで、下から相手を操作する事が出来る。相手を引っ繰り返してマウントを取り返したり、各関節技に移行する事も可能である。


 そして今、真橘が入ったハーフガードというのは、相手の片足に両脚を絡ませているものだ。クローズドガード程、下の者が有利という訳ではないが、トップを獲られた場合程、下の者が不利という事はない。スイープ次第ではクローズドガードにも移れるし、ここから関節を狙う事も出来る。


 そのハーフガードに入られた状態で、ユーリが、左の拳を落として来た。

 真橘が、それを右手で払う。


 ユーリの右のパンチが、真橘の顔を、フック気味に狙った。

 真橘がそれを左手で払うと、ユーリの左手が真橘の左袖を掴み、手前に引いた。その左腕に右腕を巻き付けて、アームロックを極めようとする。と、真橘は右手でユーリの左襟を掴み、下に引きずり込もうとした。


 ユーリが堪え、真橘が、左肘に曲げるゆとりを持たせる為、腹筋を使って軽く上体を持ち上げた。


 そこで、三分が経過した。

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