パート2
さっきまで夕希と千恵が戦っていたそのマットに、今は、真橘とユーリが立っている。
真橘は空手衣に着替えていた。
ユーリはサンボの道衣である。蒼い上衣は柔道のそれと同じで、空手衣よりも生地が分厚い。空手や柔道のようなズボン状の下衣はなく、スパッツを穿いていた。それで、上衣を帯で留めている。
どちらも力神会のオープンフィンガーグローブを付けている。防具はそれだけだ。
夕希と千恵との試合も突然の事であり、驚愕すべきマッチメイクであった。しかし、東堂真橘とユーリ=リピストークという試合も、驚嘆の程では敗けていない……それ所か、その名前、実力、技術の違いなどから考えれば、同門の師弟である先の組み合わせよりも、注目度は高い筈だ。
“お金を取れるよね、これ”
試合を始める前に、真橘は言った。その通りだ。真橘は空手の試合にしか出ていないアマチュアだが、それでもテレビで特集が組まれたり、写真集の要望が出たりと、アマチュアはアマチュアなりに名前が売れている。
ユーリはサンボの世界でも天才と称されたばかりではなく、一〇代にしてアメリカでの総合格闘技のトーナメントに出場し、準優勝を飾っている。
それを、田舎の運動公園の体育館などで、しかも、無料で観戦出来るなど、人生に一度あればそれだけで全ての運を使い果たしてしまうと言っても良い。
「ルールはどうするんですか」
夕希は、試合が始まる前に、千恵に訊いた。真橘とユーリは、黙々と試合の準備をしていたが、夕希は、空手とサンボではルールが違う事を分かっていて、それが疑問であった。
空手は基本的には打撃がメインだ。力神会の無差別級・真剣勝負ルールでは、投げ技や掴み技が許されているが、それは瞬間的なものであると規定されている。それに、真橘が通っている月照会は、防具空手の流派である。
一方、サンボは、柔道で日本を圧倒した歴史を持つ、グラップリングの技術だ。柔道には打撃技がなく、相手の襟や袖を掴む所から攻防が始まり、サンボでは関節の取り合いが主な展開となる。
パンチやキックがないサンボと、関節技や絞め技のない空手では、同じ試合場で戦えるルールがないと思っていた。
が、それについては、“バーリトゥード”の一言で片が付く。
バーリトゥードとは、ポルトガル語で、“何でもあり”という意味だ。又、そのようなルールの格闘技の事である。
世界中で、格闘技の総合化のブームが起こった頃、突如として現れたのが、このバーリトゥードという試合体系であった。ブラジリアン柔術と呼ばれる技術を伝える者たちによって導かれ提唱されたこのルールは、空手やボクシングなどに代表される
現地ブラジルでは、眼を狙った攻撃と、噛み付きのみを禁じたルールであり、裏の世界ではそれさえもない、まさに何でもありの格闘技であった。
その何でもありに、幾つかの細かいルールを設定していき、整備されたものとして、UFAを始めとした総合格闘技団体は試合を行なっている。
そのバーリトゥードでやろうと真橘は言い、ユーリは了承した。が、真橘が提案したかどうかというのは兎も角、ユーリが賛成しない訳がない。ユーリはバーリトゥードのトーナメントに出場し、バーリトゥードで戦っているからだ。
だから、夕希が心配したのは、空手とサンボという真逆の格闘技同士の邂逅という話ではなく、
「東堂さんは、サンボと戦えるんですか?」
そういう事であった。
空手家である東堂真橘に、サンボという柔術と戦う術はあるのか。
打撃系格闘技である空手と、サブミッションがメインのサンボでは、戦い方が全く異なる。打撃の威力を発揮するには、速度が必要で、加速の為には距離が不可欠だ。
対してサブミッションは、相手と密着して技を掛ける。加速の為の距離を殺す事が、サンビストが空手家に勝利し得る条件だ。
ユーリ=リピストークが、単なるサンビストであれば、真橘は常に空手の間合いで戦えば良い訳だが、ユーリはバーリ・トゥードトーナメントで決勝まで勝ち上がった選手だ。大会に出場するのは、サンボや柔道、レスリングなど、組み技を専門とする選手だけではない。空手家、ボクサー、ムエタイなどの打撃選手もいるだろう。ユーリも、そうした選手に抗するべく打撃を充分に学んでいる筈だ。
真橘の空手の実力を一〇〇として、ユーリのサンボが同じ値であるとしても、ユーリが五〇の打撃を学んでいるとすれば、単純計算では、真橘に総合力で勝る事になる。
真橘の打撃を躱して、懐に入り込み、サンボの土壌に持ってゆく――ユーリのファイトは、そのようなものになるだろう。
真橘は、それに対抗出来るのか。
「戦えるよ」
千恵は答えた。
「真橘も、トータルファイターだからね」
「え⁉」
「真橘も、空手だけじゃない、柔術やサンボを会得してる」
「そ、そうなんですか! ……良かった……」
夕希は、胸を撫で下ろした。自分の憧れである真橘が、違う土壌で戦って窮地に追い込まれる所は、見たくなかった。少なくとも互角の戦いが出来る事を、千恵が証言したのである。
「あ、若しかして、東堂さんも、狙ってるんですか?」
「狙ってる?」
「その、バーリトゥード……」
「さぁ、どうだろう」
千恵は、何処となく冷めた様子で言った。真橘の事となれば熱くなる彼女の態度に、夕希は怪訝そうな顔をする。しかし、これ以上の質問は出来ないようであった。
試合場の真ん中に、絵梨佳が進み出て、今回のスペシャルマッチの審判を務めると言った。
「始め!」
向かい合った真橘とユーリの間で、絵梨佳が言った。
ルールは、こうだ。
基本は、バーリトゥード。
打撃、あり。
投げ、あり。
関節技、あり。
絞め技、あり。
反則行為は、
眼を始めとした顔の孔、股間への攻撃。
噛み付きや、相手を引っ掻く事。
相手の髪や指を掴む事。
その他には、相手に馬乗りになって攻撃しようと、相手の後ろから後頭部や背中を打撃しようと、構わない。
試合時間は、三分三回戦と、その間に三〇秒のインターバル。
着衣は、真橘が空手衣、ユーリが柔道の上着とスパッツ、両者ともにOFグローブ。
決着は、ギブアップかノックダウン、又はノックアウト。
ギブアップの際には相手の身体を三回タップし、ノックダウンは10カウント。
至ってシンプルなルールであった。
シンプル故に、それは、恐ろしいルールであった。
ルールとは、自分を守る為に存在する。それが少ないのである。
空手でもサンボでもないルール。
競技としては、限りなく自由度の高いものであった。
そのルールの下で、二つの世界の天才が、ぶつかり合おうとしている。
向かい合っている本人たちよりも、観戦している力神会の者たちの方が、緊張しているようであった。
ユーリは、この自分たちよりも緊張している者たちの事が、分かっているようであった。その為、試合場に上がる前に、このように発言している。
「聞きたい事があるのだけれど」
と、千恵に言った。
「仮に、私がマキに勝ったとして、貴女たちが、私をリンチするって事はないわよね」
真橘は空手家である。日本人である。
ユーリはサンビストでロシア人だ。
自分たちのやる武道、自分たちが属する国家のカテゴリーを、他の格闘技や他国よりも優先してしまう事は、自然であった。
その為、真橘が敗けた時、ユーリに対して仇討ちをしようと考える者が出るのではないかと、ユーリは問うたのである。
その質問に対し、千恵は、
「心配はありませんよ。ここには、貴女たちと同じ場所にいる人間は、いません」
と、答えている。
真橘やユーリと同じ場所――
それは、武道や格闘技を、真橘のように、所詮は人を殺す為の術、
敗けず嫌いではあるし、大会で優勝したいという思いを抱き、強くなりたいと思う者はある。しかし、それは何らかの目的があっての事である。世俗の価値観、世の為、人の為、自分の生活の為に、空手をやっている者たちの集まりである。
だから、ユーリのような物騒な発想は出て来ない。
「第一、真橘は、私たちにとっても、味方という訳ではありませんから」
千恵は更に、そう言っている。
真橘が所属しているのは月照会という防具空手の一派だ。しかし真橘は、力神会も協賛しているフルコンタクト空手のオープントーナメントで、優勝を飾っている。フルコンタクトによる完全実戦主義を謳う力神会の人間としては、余り面白くない話であった。
「えーっ、朝香さん、それは酷いよぅ」
真橘は頬を膨らませて、そう言ったものである。しかし、事実であった。
独りである――
真橘には、常にその思いがある。
試合場に立つのは、自分一人である。
例えここが月照会の道場であろうと、試合場に立って、相手と向き合ったその時には、自分たった独りである。唯一自分のみが、相手と戦うのである。
その自分独りの戦いに横からしゃしゃり出て来て、仇討ちなどと言うのは許せなかった。
「それを聞いて、安心したわ」
ユーリは言った。その顔は、平静そのものである。平然と物騒な事を問うてみせるユーリと、ユーリの思想にざわめく者たちを見れば、どちらが緊張しているかは明らかである。
そして、二人は向かい合ったのである。
東堂真橘、身長一五六センチ、体重は四二キロ。
ユーリ=リピストーク、身長一六〇センチ、体重は五三キロ。
対峙した二人は、微笑みさえ浮かべて構え、膝でリズムを刻み始めた。
空手の様式ではなく、出来るだけバーリトゥードトーナメントに近い方式で、試合を始める。
絵梨佳が、
「始め!」
と、告げた。
熱風と冷気が、真っ向からぶつかった。
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