冷たくて……熱くって

パート1

 意識が、暗闇の底から浮かび上がって来る。


 真っ暗であった視界が、白く濁り、じわじわと色が付いて来る。見上げているのはサブアリーナの天井であった。その視界に、顔に何枚かの湿布を張り付けた千恵が入り込んで来た。


「ち、ちえ……」


 起き上がろうとする夕希を、千恵が制した。


「大丈夫? これ、何本か分かる?」


 千恵は、拳から指を突き出して、夕希に見せる。


「さ、三本……」


 夕希が答えると、千恵は安心したという表情で頷いた。


「あ、起きないで、まだ寝てて」


 そう言う千恵の反対側から、真橘が顔を出した。


「大人げないんだから、朝香さん」


 真橘が、苦笑いを浮かべている。


「脳震盪させるのは、やり過ぎだよー」


 真橘は自分の顎に手を当てた。夕希のキックのカウンターを取り、千恵は夕希の顎に蹴りを叩き込んだのである。その威力で、夕希の頭蓋骨は振動し、脳みそがプリンのようにシェイクされ、夕希は気を失った。


「しかも、あれさー……」

「言わないでよ……」


 真橘が言うと、千恵は困ったような顔をした。


、だよね」

「――」

「次の大会でも、狙ってたのかなー?」

「……大会は兎も角、用に勉強したんだよ」

「へぇ……」


 カポエイラとは、ブラジルの打撃系格闘技である。その発祥は、アフリカ大陸から奴隷として連行されて来た黒人たちが、自衛の為に創り上げたとされている。


 強制労働をさせるという目的上、彼らには作業の為に、鎖や縄にゆとりのある拘束具が取り付けられている。その拘束具のゆとりの範囲の中で出来る動きを、使役者たちに悟られぬようダンスの練習という形態を採って、研磨されていった。


 その特徴は、激しいスイッチや、戦闘中に逆立ちをしたり、バック転をしたりというような派手な動きから繰り出される足技にある。


 倒れ掛けた千恵が、両手をマットに付いて身体を跳ね上げ、逆立ちをするようにして蹴りを放つ――このようなアクロバティックな動きを咄嗟に出来たのは、千恵にそうした知識があり、練習をして来たからに他ならない。


「私の為に? 何だか照れちゃうなぁ」


 真橘が訊いた。


「その言い方は誤解があるけど。……でも、ま、そんな所」


 千恵は、夕希に向き直った。


「そういうものをさ、あんたは、私に使わせた訳……」

「――」

「だから、何にも変わってないなんて、そんな事はないよ。もっと自分に、自分が積んだ稽古に、自信を持って良いんだよ、夕希はさ!」


 と、千恵は微笑んだ。


 勿論、千恵の方で手加減はした。しかし、真剣に夕希と向き合った。その上で、夕希は千恵を追い詰め、東堂真橘という天才に対抗する為の手段として学んで来たカポエイラの技術を使わせたのである。


「押忍……」


 夕希の目尻から涙が落ちる。その涙を、千恵が拭った。


「泣き虫なのは、変わってないね」

「押忍」

「でも、良い顔だ……」


 千恵に言われて、照れ臭くなり、夕希は腕で眼元を擦る。そうして、今にもばらばらになってしまいそうな身体を、どうにか起こした。まだ頭は痛むし、視界も正常には戻っていないが、そこまでは回復する事が出来た。


 と――


「凄いよ、夕希!」

「信じられない……」

「本当に白帯なのぉ⁉」


 どたどたと、同門の者たちが、夕希に駆け寄って来た。空手を始めたばかりの夕希が、自分たちを指導している千恵と互角の戦いをした事に感歎したのである。それを口々に讃える仲間たちであったが、夕希は戸惑って、答えられないでいる。


「こ、こら、貴女たち! 師範代は……」


 と、真澄が、千恵が決して全力ではなかった事と、この試合の目的が夕希の成長を誰あろう本人に自覚させる為のものであった事を強調しようとするが、それを千恵が止めさせる。


「良いんだって」

「でも……」

「私も、まだまだ、これからって事! ファイトだ……押忍!」


 切り傷を作った顔で笑う千恵と、複雑そうな表情の真澄。夕希を揉みくちゃにする弟子たちの輪から離れてゆく二人の指導員に、夕希が助けを求めていた。


 と、その弟子たちの輪の中に、するりと、全く別の空気を持つ少女が滑り込んで来た。


 まだ上体を起こしただけの夕希に、すぅと近付くと、右手を差し伸べる。


 思わずその手を取った夕希は、手の主を見上げて、息を呑んだ。


「ハラショー、ユーキ」


 少女は言った。

 金の髪と、碧い眼の少女であった。


 服装は空手衣ではなく、胸元がざっくりと開いた黒いシャツの上に、赤いジャケットを着て、白いパンツを合わせている。


 真橘や千恵よりも肉は付いているが、上背があるのと、四肢が長い事で、かなりシャープな体型であった。


 氷のように冷たい美貌が、春の雪のように優しく緩んでいた。


 夕希が、見た事のない顔であった。

 他の者たちも、暫くは、彼女が誰であるのか分からなかったらしいが、絵梨佳が、


「ユーリ……」


 と、呟いた事で、その正体に気付く者たちが現れた。


「ユーリ=リピストーク⁉」

「サンボのユーリ⁉」

「ど、どうして……」


 ざわりと、金髪碧眼の少女――ユーリ=リピストークの周りが沸き立った。


 ユーリは長い髪を手で梳くと、


「あら……意外と有名なのね」


 と、言った。日本語だ。


「私よりは、ね。流石はロシアの妖精、ユーリ=リピストーク」


 真橘がユーリに歩み寄ってゆく。


「お忍びで来たのにねェ」


 ユーリは肩を竦めて、再び夕希の顔を眺めた。


「凄いわ、貴女。白帯って事は、始めてそんなに長くないんでしょ? それなのに黒帯のチエと、あそこまで戦えるんだもの」

「あ……ど、どうも」

「ハラショー」

「は、はらしょー……」


 もう一度、ユーリは夕希と握手をした。

 夕希は彼女の事を知らなかったので、傍にいた鈴子にそれとなく訊いた。


「ロシアのサンビストよ」

「サンビスト?」

「サンボって知ってる?」

「名前ぐらいは、何となく……」


 サンボとは、ロシアがソヴィエト連邦であった頃に成立した格闘技である。ソヴィエトはその広大な国土に様々な民族を住まわせており、それらに伝わる多くの格闘技を総合して創り上げた、グラップリング主体の格闘技がサンボである。その中には、日本の柔道のエッセンスも取り入れられており、一時の柔道界の栄光はサンビストたちに支配されていた事もある。


「そして、最年少クラスのトータルファイターでもある……」

「トータルファイター?」

「打・投・極の三つトータル……総合格闘技よ」

「総合……」

「確か、去年、アメリカで開催されたバーリトゥードトーナメントで準優勝したわ」


 そう言えば――と、夕希は思い出した。身を入れて観たのは、真橘の回のみであったが、ちょくちょくと『Fighting Dreamer』の放送を流し見た事があった。その内に、アメリカで大規模な格闘技トーナメントが行なわれたと、そういう特集が組まれていた回があったのだ。


 その時に、女子の部で若くして勝ち進んだ少女と、紹介されていたような気がする。


「それが、どうして……」

「さぁ……」


 夕希と鈴子が疑問に思っているその前で、ユーリは、真橘と親しげに話している。日本語のイントネーションにはまだ慣れていないようであったが、先程、夕希との意思の疎通が滞りなかったように、真橘とも友人のように語らえていた。


「あの……」


 夕希は、千恵を呼んだ。そもそも力神会ではなく、月照会に所属する真橘の事を、この中で一番詳しいのは同級生であった千恵だ。


「東堂さんとリピストークさん、どういう関係なんですか」

「友達……?」


 と、千恵は首を傾げた。


「ご覧の通りって感じかな」


 千恵は不機嫌そうに鼻を鳴らした。それは、同級生の千恵を“朝香さん”と呼び――何なら、まだ以前の姓で呼んだりする――、修めている格闘技のジャンルが異なるユーリを呼び捨てにしている事への不満であるようにも映った。


「日本にいる事自体は……まぁ、一〇月の“ウルティマ”に出る事を考えれば、視察って意味合いになるのかな……」


 “ウルティマ”とは総合格闘技の団体の事である。正式には、“ウルティマ・ファイターズ・アライアンス”=UFAといい、総合格闘技ブームの中で誕生し、世界最大の規模を誇っている。“究極の格闘技者たちの同盟”という名前の示す通り、興行成績はあらゆる武道・格闘技のイベントの中で最も大きく、試合の質も高い。


「ねぇ、チエ」


 と、そのユーリが呼び掛けて来た。


「ここ、使っても良いかしら」

「使う?」

「うん」


 真橘も千恵に言った。


「だいぶ、場も温まってるみたいだし、さ」

「場も、って……まさか」

「私とユーリで、試合をしたいんだけど、ここでやっても良いかな?」


 真橘は言った。

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