パート5
うん……。
これは良い。
これは良い、と、私は思っている。
これと言うのは、スーパーセーフを外した事だ。
千恵先輩は、私に怪我をさせない為に、スーパーセーフやボディプロテクターを着用させた。けれど、こうやって素肌を晒している方が良い。
何故なら、怖いからだ。
千恵先輩の突きや蹴りが、直接、顔を狙って来る。グローブを着けているとは言え、私が既にやって見せたように、巧い具合に攻撃を入れればそれで充分、相手を傷付ける事が出来る。
その怖さが、防具を着けている時とは桁違いだ。少しでも気を抜けば、拳が直撃する。下手をすれば、鼻が潰れ、歯が折れてしまう。眼球を強打されるかもしれない。
怖いから、眼を反らせない。眼を反らした瞬間、意識の外から加えられる打撃で自分が傷付くのを恐れていれば、相手の一挙手一投足を見逃そうとは思わない筈だ。
拳か、脚かではなく、相手の全身を見なければ、何処からどのような打撃が迫り、それでどのように傷付くのか分からない。
それが嫌なら、相手の全身を見ているしかない。いや、全身でなくても良い。眼だ。目線を追っていれば、自然と、相手が何処を狙っているのか分かる。狙われている場所が分かれば、打撃がどうであれ、そこを庇えば良いのである。
それにスーパーセーフは、どうあっても視界が悪くなる。額の真ん中から下唇と顎の間、こめかみからこめかみまで、その面だけが、透明なプラスチックのカバーで覆われている。それ以外の頭を覆う部分は、プロテクターと同じ白いクッションだ。そのクッションの分だけ視界は狭まり、カバーが息で曇れば外界の景色を捉え難くなる。
後は……そう、空気。ぴりぴりとした空気の流動を感じ難くなる。音も聞き辛い。
戦うというのは、眼で見るだけではない。音や、匂いや、空気の動き……それらを統合して処理して、行なうものだ。
だから、それらを妨げるのなら、防具なんて要らない。怪我をさせない事が目的ならば兎も角、怪我をしない為の道具なんか、要らなかった。
ぶぉ。
千恵先輩のパンチが、空気を巻き込みながら、目前に迫る。拳圧が顔を叩き、直後、私の鼻先に触れた。どくん、と、心臓が高鳴る。アドレナリンが分泌され、意識が加速した。加速した意識が後退してゆく。
スウェーバックだ。悪手なのは分かっている。スウェーは、真っ直ぐ下がる動きであるから、真っ直ぐ進むストレートに対して使えば、ストライクが僅かに遅れるだけだ。
でも、その一瞬で、出来る事もある。
私は、千恵先輩の右袖に、右の人差し指と中指を引っ掛けて、手前に引いた。パンチの進む勢いに、小さな力を加えた事で、その方向に千恵先輩の拳が逸れてゆく。千恵先輩の顔の右側が、がら空きになった。そこに、左のフックを走らせる。
すると、その左の腕を、這い上がって来た千恵先輩の左手が払った。右腕が持ち上がって来て、身体の前で円を描きながら、私の左腕が外に振り出される。そうして、千恵先輩は私の左腕に、右腕を絡めて来た。腋の下に腕を挟み、左のショートパンチで顔を叩いて来る。
躱せない。ぼん、と、顔の前で爆弾が爆発した。眼の前で火花が散る。
だ
か
ら
ど
う
し
た。
左腕が使えないのなら、右腕で殴る。当たり前の事だ。拳を真っ直ぐに打ち出して、千恵先輩の胸を叩く。それを腕刀で弾かれ、裏拳が顔の真ん中に飛んで来た。
一旦弾かれた右の、掌底で、千恵先輩の頭の横を押さえ付けた。
動かない。頸を固めて、耐えたんだ。
左のパンチが襲って来た。
殴られながら考える。
どうして、動かない?
どうして、倒す事が出来ない?
さっき、千恵先輩は私を簡単に投げた。体重で言えば、私の方が重い。だから、私が倒す心算でやれば、千恵先輩の事を投げるのは、そう難しい訳がない。
いや、そうじゃない。
私は二回投げられた。
そして、私も一度、千恵先輩を投げている。正確には、タックルで押し倒している。
どうして投げられたのか。どうして倒せたのか。そして今は、どうして倒せないのか。
私が投げられた時も、私が倒した時も、重心が崩れていたからだ。私が投げられた一度目は、掌底で頭を打たれて、体勢を崩していた。二度目は、千恵先輩が私の下に潜って、私の重心を押し上げた。私が倒した時は、身体を跳ね上げる勢いで千恵先輩を打撃し、身体に下から抱き付く事で重心を持ち上げた。
今、倒せなかったのは、それらが出来ていなかったからだ。それをする事が出来れば――
私はもう一度、千恵先輩の顔の横に、掌底を叩き付ける。と、同時に捕らわれている左腕に向かって、腰を進めていった。千恵先輩の重心に、私の重心をぶつけて、崩す為だ。掌底打ちでひびを入れ、私の腰を打ち付ける事で重心を割ってやる。更に、その所為で浮かび上がった脚に、こちらの脚を掛けて、そのまま、左側に投げた。
頸を抱えるようにして、千恵先輩に身体を浴びせつつ、投げる。
千恵先輩の身体が浮かんだ。
千恵先輩は、私の右腕を解放する事で、私から距離を取る。
ごんっ、と、右肩からマットにぶつかった。
千恵先輩も受け身を取っている。
肩の痛みなんか、知らない。右腕を上げる事が出来なくなっていたが、別に、外れている訳ではなかった。
頭をブロック、は、しない。
左腕を前に出して、進んでゆく。
立った千恵先輩の顔目掛けて、左のパンチ。
ダッキング。
横から、千恵先輩の拳。
頬を、掠める。
回った。
さっき、千恵先輩が、私のパンチに対して、同じ事をやった。そして、回ったら、攻撃だ。その回転力を攻撃力に転化して――
ぞぶ!
私の踵が、肉に喰い込む感触があった。その中に、ごりごりとした硬いものもあった。
中段への後ろ廻し蹴り。
千恵先輩の一番下の肋骨に、私の踵の半分が掛かり、残り半分は肉を蹴っていた。
「おえぇぇっ」
千恵先輩が、頭の位置を低くした。
一回転……いや、二七〇度回転した所で、千恵先輩の頭が、ミドルにあるのを視認した。
そうして、一回転し切る直前に、つまり、後ろ蹴りに使った右足が着地すると同時に、その右足を軸に、左足を振り上げた。
ミドルキックが、千恵先輩の頭を、真横から打ち抜く。
千恵先輩の頭が、横に、吹っ飛んでいった。
倒れてゆく。
やった!
今の蹴りには、手応えがあった。
本能で分かる。
今のは、直撃だ。
あれを喰らったら、もう、立ち上がる事は出来ない。
しかも、頭だ。頭蓋骨だ。脳みそだ。
胴体なら、恐怖しながらも私が立てたように、痛みだけだ。痛みだけなら、千恵先輩は立ち上がれる。けれど、脳を揺さ振られてしまったら、もう立てない。
そう思った。
勝った⁉
信じられない。
私が、千恵先輩に……
私の視界の片隅に、跳ね上がって来た肌色が見えた。
ぽん、と。
横に倒れ込みながら、千恵は右足を繰り出していた。
夕希の蹴りで倒れた千恵は、マットに両手を突いて身体を縮め、ばねのように身体を伸ばす勢いで、右足で夕希の頭部を狙った。
千恵の背足が、勝利を確信して緩んだ夕希の顎を、斜め下から駆け上がって打ち抜く。
夕希の頭部が、頸を起点に回転し、その蹴りの威力を螺旋状に身体に伝え、左膝、左肩、頭部の順番で、マットの上に沈んだ。
「ハラショー」
真橘の隣に、いつの間にか立っていた金髪の少女が、そう言った。
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