パート4

「目線を下げるなッ」

「相手から眼を反らさない!」

「縮こまったら駄目!」


 突然その場に現れて、声を張り上げた東堂真橘に、一同は驚愕した。一方的な展開となって来たその試合に揺らいでいた門弟たちの心に、凛と入り込んで来た真橘の言葉であった。


 真橘は、夕希の真正面――試合場の反対側、千恵の後方から、そうやって声を掛けている。


 夕希へのアドヴァイスのようであった。


 それを受けて、夕希の頭が持ち上がり、どんっ、と、跳ねた。

 夕希の身体が、千恵に抱き付いてゆく。


「あやぁあぁぁぁっ!」


 夕希は、訳の分からない叫びを上げながら千恵に突撃し、彼女の身体を抱いて、そのまま試合場に押し倒した。


「離れてっ」


 真澄が、思い出したように二人の間に入る。


「星沢、注意一!」


 二人を引き離して、立ち上がらせ、その場で続行を告げる。

 夕希のそれは反則行為であったが、しかし、二人の戦いの場をマットの中央へ通し戻していた。


「ああああああああああああああっ!」


 夕希が叫んだ。






 真橘の言葉が聞こえたのだ。

 真橘の声が聞こえたのだった。


 夕希は、その声に従った。


 顔を下げない。

 目線を下げない。

 相手から眼を反らさない。

 縮こまらない。


 それら全てを実行した。


 顔を上げ、目線を上げて、千恵から反らしていた眼を戻した。

 そうして、縮こまっていた身体を伸ばし、跳ねさせたのだ。


 オートバイに乗る時、その動きは、ライダーの視線の先へ向かう。どれだけギアの操作が巧くとも、タンクをしっかりと膝で挟み込んでいようとも、眼を反らせば正しいコースが見えなくなって、転倒する。

 それと同じ事だ。夕希は千恵を視界に捉える事で、千恵をタックルで突き飛ばす事が出来たのだ。


 後押しがあったからだ。


 真橘の言葉が、逃げ掛けていた心を、試合場に押し戻してくれたのだ。


 そして、真橘の姿が視界の隅にちらついた。彼女の姿が、夕希をマットの中央に引き戻してくれたのであった。


 それがどうとも言いようのない感情となって迸り、千恵を押し飛ばしたのである。


 千恵を押し倒した夕希は、真澄の手で引き剥がされ、立ち上がった。


「続行!」


 真澄が言った。


 良いんだ……


 夕希は、背筋を駆け上がる、コーヒーの如き感覚に支配された。

 地獄のように黒く、炎のように熱く、接吻のように甘い感覚だ。


 沸き上がる黒い衝動と、燃え上がる熱い激情と、広がりゆく甘い恍惚のまま、夕希は叫んだ。


「ああああああああああああああっ!」


 背骨の一番下から、頭蓋骨のてっぺんまで、螺旋を描いて駆け上がる龍のような情動だ。その羅龍が、夕希の全身の血液を沸騰させている。


 咆哮のまま、感情の龍がひしり上げられる。反らした頤に沿って、天上へと伸び上がってゆくかのようであった。顔を戻せば、その龍の慟哭は再び地に降り、夕希の身体の中に入り込んだ。


 痛みを押し殺しながら進もうとした身体に、逃げようとした心が融合した。もう、逃げようなどとは思っていなかった。一度は分裂し掛けた夕希の心と身体は、再び繋がり合い、より強い絆で結び付いたのであった。


「しゃっ!」


 千恵が鋭く呼気を吐き、躍り掛かって来た。


「ひゃあっ!」


 夕希も火の如き気合を発し、千恵を迎え討った。

 タイマーは止まっていたが、誰も二人を止めようとはしなかった。






 夕希が、千恵の顔面に向かって、右の拳を叩き出してゆく。千恵はそれを左上段受けで弾くと同時に、下腹を突き上げた。

 その千恵の右腕を、夕希が左腕で払った。夕希は身体を右側にひねる事になり、胴体を引き戻す勢いで、右の肘を跳ね上げる。

 千恵の掌底が夕希の左側頭部を打ち抜いたのと、千恵の顎に小さな切れ目が生じたのは、同時であった。夕希の猿臂が、千恵の顎の皮膚を鋭く擦り上げたのである。


 千恵が、右のフックを打ち込んだ。夕希が身体を沈めて、頭をU字に動かした。ウィービングを使って千恵の右側に移動した夕希は、左のパンチを投げてゆく。


 千恵は、右こめかみに夕希の拳が触れるか否かのタイミングで回転した。その回転の勢いで、千恵の左のバックブローが、夕希のスーパーセーフのプレート部分を弾いた。ぴしり、夕希はそんな音を聞いた。


 夕希が、右側に倒れてゆく。右手と右膝をマットに着いた。


“目線を下げるなッ”


 真橘の言葉が、夕希の脳裏に浮かび上がった。顔を上げる。


“縮こまったら、駄目!”


 真橘の声が、夕希の耳に蘇って来た。身体を持ち上げた。


 そのスーパーセーフが、追い討ちを掛けようとした千恵の拳にぶつかった。カウンターの頭突きの衝撃が、千恵の肩に抜け、千恵が顔を歪める。


 夕希は千恵の右袖を左手で掴んで、千恵を引き寄せながら立ち上がった。立ち上がりざまの右の打ち下ろしが、千恵の頬を叩こうとした。千恵は夕希の顔面を掌底で押し飛ばし、距離を取る。夕希のグローブのクッション部分が、千恵の鼻先を掠めた。


 夕希は両足を広げて重心を安定させ、倒れるのを堪えた。その頭部に千恵の廻し蹴りが炸裂した。スーパーセーフのプラスチック部分の亀裂が大きくなった。夕希は、眼の前に蜘蛛の巣を張られたようであった。


 夕希が拳を向ける。

 千恵が、カウンターを取って蹴りを放った。

 ボディだ。


 今度は、下がらなかった。

 逆に、千恵のボディに、前蹴りを叩き込んでいった。


「ぐむ……」


 千恵が噛み締めた唇から、小さく声が漏れた。腹筋を固めてダメージを防いだとは言え、防具プロテクターのない胴体に押し込まれた踵は、千恵の内臓を強打する。


 千恵が怯んだ一瞬、刹那にも満たない時間が過ぎる前に、夕希は千恵の顔にパンチを入れた。


 力神会OFグローブのクッションが、千恵の頬を捉えた。千恵の顔が歪み、駆け抜けたグローブが、左の頬から鼻頭に掛けて赤い切れ込みを入れた。


 もう一発!


 夕希の左のストレートが、真正面から千恵の顔面を捉えた。素手の拳ベアナックルであれば鼻の骨を潰し、前歯を何本か圧し折っていただろう。


 千恵の足が、何度かマットに付いては離れを繰り返し、下がってゆく。その下がった千恵を追って、夕希が走った。千恵が態勢を整える前に夕希は左足で跳躍し、右足で空を薙いだ。


 夕希の跳び蹴りを、バランスを崩していた事で却ってやり過ごした千恵は、着地した夕希の上段に廻し蹴りを入れた。夕希が視線をそちらに移した為、千恵の脛がスーパーセーフを正面からぶち抜いた。


 振り抜かれた千恵の足の軌道に沿って、夕希が倒れ込む。顔面からマットの外に落ちた。


「技あ……場外!」


 真澄が言った。全身がマットの上に倒れていれば、技ありであった。しかしスリップダウンによる場外であるから、技ありも注意も受けない。


「夕希、立てる⁉」


 アリーナの床に手を突いて上半身を起こそうとする夕希に、真澄が駆け寄った。夕希は蛇のように膝でにじりながら、獣のように四つん這いになり、片膝立ちになり、直立してゆく。


 千恵を振り向いた夕希は、生の瞳で千恵を睨み付けた。スーパーセーフのプラスチック部分が割れている。千恵の度重なる打撃と床に落下した駄目押しで、破損してしまったのだ。


 真澄がスーパーセーフを外してやろうとした。夕希はその前に自らスーパーセーフを取り外すと、乱雑に床に投げ付けた。


 ボブカットの髪がぼさぼさに逆立ち、汗で艶めいている。垂れ眼が今は吊り上がり、眼の白い部分には血管が這い回っていた。


「夕希ィ!」


 千恵が吼えた。

 夕希が駆け出してゆく。

 スーパーセーフを取り払った素面の夕希が、千恵に迫った。

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