パート3

 スーパーセーフの中で夕希は、自分の歯が細かく打ち鳴らされているのを聞いている。腕で頭を覆い、猫背になり、膝を固めた――立ったまま亀の体勢になっているのは、震えている事を周りに悟られない為だ。


 腹が、じぐじぐと痛んでいた。千恵に前蹴りを叩き込まれた箇所であった。腕も痛い。千恵のラッシュから頭を守ったからだ。守った筈の頭が、ぐわんぐわんと揺れていた。投げられた衝撃と相まって、軽い脳震盪に近い症状を引き起こしているのであった。


 試合の最中である事が、分かっている。千恵と戦っている途中である事を、憶えている。なのに、一歩踏み出そうという気持ちになれない。真澄の号令を聞いた時のように、自分から仕掛けてゆこうという意識が、すっかり萎えてしまっていた。


 痛み……


 全身に遍く痛みが、恐怖となって、夕希の身体を丸めさせていた。


 進まねば、前に出ねばと思うのに、足が動かない。

 足を動かせば、震えているのがばれてしまう。

 怖がっているのが誰にもばれてしまう。


 千恵に、その事を知られるのが嫌だった。いや、千恵がそれを知る事により、自分が全く成長していない事を自覚するのが、嫌だった。


 たかが一月半の稽古で、何が変わるのか。

 されど一月半の稽古だ。


 自分が慣れ親しんだスケジュールを全く新しいものに変え、眼に分かる変化を遂げる程の一ヶ月だった。それなのに、結局、自分は何も変わる事が出来なかった。弱いままであった。今までと同じように、こうやって背中を丸めて生きてゆく事しか出来ない自分のままであった。


 それを認めたくない。

 さっきまでは、自分を応援してくれた周りの人たちが何だと言っていたが、そんな事はどうだって良い。

 自分が嫌なだけなのだ。変わりたいと願って始めた空手で、結局何も変わる事が出来なかった、それを認めるのが嫌なだけであった。


 いや、そんな事よりも。


 今は、怖かった。

 ただ、怖かった。


 痛みが、だ。

 千恵から送り込まれて来る拳の、蹴りの、投げの痛みが、恐ろしくて堪らなかった。


 痛みの恐怖で、夕希の全てが埋め尽くされていた。


 吐き気すら催す痛みの中に、千恵が歩み寄って来るのが見えた。下げた視線の先に、千恵の足が映ったのである。


 顔を持ち上げた瞬間、眼の前に千恵のパンチが迫って来ていた。両腕でガードするが、衝撃で後退する。腕のガードの隙間から千恵を覗くと、拳を振りかぶっている所である。ブロック越しに、正拳を頭部に打ち込んで来る心算であった。


 が、それはフェイントであり、千恵の右脚が鞭のようにしなって、夕希の太腿に打ち下ろされて来た。硬質タイヤが破裂バーストするような音が、夕希の太腿から発せられた。


「ぎゃあっ!」


 スーパーセーフの内側に、夕希の唾が飛んだ。


 左脚で自分を支える事が出来ず、視界がぐんっと下がってゆく。その落下する夕希の頭部に、千恵がローキックを打ち込んだ。夕希が身体を丸めて、頭や胴体に当たらないよう、どうにか防御して横に転がる。


 転がった夕希を追った千恵が、左袖を右手で掴んで引き起こし、そのまま夕希のうなじで両手をクラッチ、頸相撲を仕掛けて来た。頸反射によって上体を起こせない夕希は、そのまま、胸の辺りに膝を打ち上げられる。


 両腕を使ってガード。ガードの上から何発も打ち上げられる膝をどうにかやり過ごそうとするも、不意に、身体ががくんと沈んだ。千恵が膝を抜いたのだ。


 千恵の自然落下によって重心を崩された夕希は、身体を夕希の下に入れ込んで来た千恵に担がれ、マットに背中から落とされる。受け身の練習もしていたので、空いた左手でマットを叩いて胴体の落下タイミングを遅らせる事が出来たが、全身の血液が激しく流動し、眼球に入り込んで来たようであった。


 ひゅーっ、

 ひゅーっ、


 と、唇から息が漏れる。その息で白く曇ったプレートに、千恵の拳が降って来た。


 顔を傾けて躱す。マットに千恵の拳が突き立った。傍に膝立ちになっている千恵のボディに、手打ちの拳を入れて気を反らし、逃げるようにして立ち上がった。


 ゆっくりと、千恵が夕希を追って来る。構えていなかった。自然体のまま、ゆるゆると歩いて来るのである。パンチでも蹴りでも、何処にでも入りそうであった。その代わりに、千恵がどのような突きやキックを繰り出して来ても、反応は出来ない。


 それが分かっているから、夕希は、視線をあちこちに飛ばしてしまう。


 次はパンチが来るかと予測して、手を見る。次は蹴りが来るかと予想して、足元を見る。

 けれども、実際に千恵が繰り出すのは、予測とも予想とも違った所だ。たまには、その予測と予想が当たる。そういう時はどうにかガードが追い付く。が、殆どは、視界の外から千恵の手が、足が吹っ飛んで来て、夕希の頭を、胴体を、四肢を叩く。


 下突きが、夕希のプロテクターを打った。防具越しに、衝撃が背中まで抜ける。


 下がった頭部に、横から掌底が打ち込まれた。頭がぐんと横に倒れてゆく。


 足が跳ねたかと思ったら、パンチが顔の正面を叩いて来た。


 夕希は頭と胴体を庇いながら、千恵から逃げようとしている。攻撃を躱す都度、その立ち位置は中心から外れてゆく。左右に振れながら、千恵に回り込まれながら、マットの端へと追いやられているように、逃げてゆく。


 痛いからだ。

 痛いのが怖い。

 怖いのが嫌だから。

 嫌なものから逃げてゆく。


 嫌なものから眼を反らして。

 怖いものから身を守って。

 痛い事から逃げてゆく。


 今までと同じだ。

 今までと変わらない。

 今まで、そうやって生きて来たのだ。

 そうやってしか生きて来られなかったのだ。

 だから、今も同じ事をする。


 人間は、今までやって来た事しか出来ない。


 勉強も、

 運動も、

 人との関わりも、

 絵を描く事も、

 唄を歌う事も、

 小説を書く事も、


 出来るのは、やって来たからだ。

 出来ないのは、やって来なかったからだ。


 優れているものがあるとすれば、それは今までやって来たからだ。

 劣っているものがあるとすれば、それは今までやって来なかったから。


 夕希は、今まで戦って来なかった。嫌な事からは逃げ続けて来た。だから戦えない。


 今まで戦い続けて来た千恵と、

 “もう駄目だと思ったのならば、まだやれる”千恵と、

 “嫌だなと思った時こそ、我慢する”千恵と、


 戦って、勝てる訳がない。

 

 当たり前の事だった。

 何の不思議もない事であった。

 

 こうやって、マットの隅に追いやられているのも、自然な事であった。


 ぎりぎりの、場外に落ちない所で抵抗している事の方が、奇妙であった。


 けれど、それも、やがて、終わる。


 千恵が、マットの端に追い詰めた夕希を、殴っている。

 蹴っている。


 その打撃の衝撃で、マットに掛けた足が、ずり落ちそうであった。そのぎりぎりの所で踏み止まっている。その踏み止まっている足の半分が、マットからはみ出した。


 足を戻す。

 攻撃の衝撃で、落ちそうになる。


 足を戻した。

 打撃の振動で、落ちそうになった。


 足を戻す。

 落ちそうになった。


 足を戻した。

 落ちそうになる。


 足を戻すたびに落ちそうになり、落ちそうになるたびに足を戻した。


 抵抗をしている意味が、分からなかった。


 何で、自分は千恵に抗っているのか。

 幾ら抗おうと、勝てる訳がないのに。

 マットの中央に戻れば、又、更なる攻撃を受けるだけなのに。

 このまま場外に出て、それで倒れてしまえば、楽なのに。


 それなのに、どうして。


 もう終わりにして欲しいと思っているのに。

 もう終わりにするべきだと考えているのに。


 どうしてこの足は、マットの上に戻ろうとするのか。


 戻ろうとすれば、更なる痛みが襲って来る筈だ。痛いのは怖い。怖いのは嫌だ。嫌な事はしたくないのに。


 訳が分からない。


 自分の心と身体が乖離してしまったようであった。

 心は試合場には立っていないのに、身体は千恵に向かい続けている。


 敗けたくないのは心だから、進むべきは心なのに、この精神は前に出たがらない。

 痛いのは身体だから、逃げるべきなのは身体なのに、この肉体は下がろうとしなかった。


 逃げようとする心と、進もうとする身体の狭間で、夕希は自分が引き千切られてしまいそうであった。


 その引き千切られそうな、物質を超越した乖離の恐怖の中で――






「顔を下げるなッ」


 声が聞こえた。

 東堂真橘であった。

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