パート2

 再び、夕希が間合いを詰めてゆく。右足を出しながら、右の正拳突き――順突きだ。前方へ進む動きが、そのまま威力に転化する。


 千恵がスウェーで頭を反らし、夕希の腕が伸び切った所で、右の内回し受けで夕希の右腕を払った。そうしながら、夕希の右側に移動する。軽やかな足運びで場所を変え、がら空きになった夕希の脇腹に、左の拳を引いて狙いを付けている。


 ワンテンポ遅らせて、千恵は左の下突きを夕希の脇腹に打ち付けた。もう一瞬、攻撃を繰り出すのが早ければ、夕希は右脚を持ち上げながら横に跳び、突きを受ける事は出来なかったであろう。


 たたらを踏みながらも、千恵に左肩を向けるよう構える夕希。


 千恵はサウスポーで構えている。右利きの千恵は、右を前にした左構えを得手としてはいない。


 突っ込んでゆき、左の拳を刻んだ。ボクシングで言えばジャブに当たる。細かくパンチを打ち出して牽制して距離を測り、本命の右ストレートの間合いまで近付いた。


 が、千恵は、夕希が右を繰り出す前に、左の拳を弾いてしまう。


 一発、二発、三発……と、パンチが払われた所で、夕希が前蹴りを打ち込んだ。


 中足を返すのはまだ苦手であったが、千恵が攻め込んで来るより先に間合いを取り、こちらのアドバンテージを作って置きたかった。


 が、千恵は右足を引いて前屈立ちになり、交差した両手で夕希の足底を受け止めると、ぐっと前に出て、夕希を押した。


 片足というバランスの悪い体勢になっていた夕希は、前方からの力を受けて、後方に倒れそうになる。


 そこに千恵が飛び込んで来た。

 飛び込んで来たのは、後ろに引かれた右足だ。


 夕希が使ったのと同じ前蹴りだ。しかし、威力が桁違いであった。

 鞭が空気を裂くように、ぱんっという破裂音さえしたような気がした。


 そのような速度で繰り出された蹴りが、夕希のボディプロテクターに、真っ直ぐぶち当たったのである。


 どんっ!


 凄い音がした。


 夕希の身体が、一瞬、マットから浮き上がり、背中から落ちた。

 試合開始から、一分が経っていた。






 胴体の真ん中で、火薬が破裂したようであった。呑み込んでしまった爆弾が、外部からの衝撃で内臓を吹き飛ばさんばかりの威力を発揮したのである。


 一瞬、呼吸が出来なくなった。いや、一瞬ではない。数秒間、夕希は、呼吸をする事を忘れ、呼吸が出来なくなっている事も分からなくなった。眼の前が白黒し、全身が痺れている。


 これは⁉


 何があったのか、すぐには頭が処理し切れなかった。前蹴りを食らったという記憶さえない。何なら、自分が試合場に立って、千恵と戦っていた事さえも、その脳からは滑り落ちていた。


「夕希!」


 誰の声だろう。

 真澄の声であった。


 真澄が、遠くから呼び掛けていた。スーパーセーフの為、声がこちらまで届き難いのだ。


「立って、夕希!」

「星沢っ、立ちなさい!」


 他に、幾つかの声が聞こえて来た。


 夕希?

 星沢?


 何だっけ、それ……

 ああ、私の名前だ。


 星沢夕希。


 立つ?

 何で?


「早く立たないと、敗けちゃうよ!」


 敗け?


 ああ、そうだ。今は、試合の最中だった。それで、ダウンして、三秒、立つ事が出来なかったら、私は敗けてしまうんだった。だから、それより早く、立たなくてはいけなかった。


 立ち上がったが、膝が、がくがくと揺れている。長時間、正座を続けた時のようだった。正座をしていて、痺れるという段階を超えると、激しい痛みに襲われる。千恵の前蹴りの一発で倒れた時には痺れであったのが、今は、痛みに成り代わっていた。


「技あり!」


 真澄が言った。

 開始線に戻るように言われる。


 生まれ立ての小鹿のように震える足で、千恵の前まで歩いて行った。

 構える。


「続行!」


 真澄に言われて、夕希が、攻めに出ようとする。

 ローキック。


 その前に、千恵が、夕希の間合いに滑り込んで来た。


 ぞくり。


 背筋が泡立つ。胴体に、先程の前蹴りの痛みが蘇って来た。夕希が視線を下げ、千恵の右足を見た。その下がった視線に、千恵の右のアッパーが迫って来た。


 力神会OFグローブのクッションが、スーパーセーフの面当てにぶち当たる。衝撃で、頸から上が後方にすっ飛んでしまったようであった。


 堪える。

 顔を戻した。


 戻したその顔の横から、千恵の左回し蹴りが襲って来た。


 夕希は両腕を顔の右横にやって、ハイキックをブロックした。夕希の身体が左側に崩れそうになる。それを千恵の左手が引き戻した。夕希の道衣の、右の肩口が引っ張られたのである。


 持ち上がって来た夕希の顔に、千恵の膝が走った。スーパーセーフの横手、ソフトなクッション部分に、千恵の膝が斜めに駆け上がって来る。


「かぁっ!」


 夕希は、右のパンチを跳ね上げた。

 千恵が、顔を右に傾けて躱す。


 夕希の右腕が、千恵の左肩に担がれるような形になっていた。その夕希の腕の外側を通って、千恵の左の掌底が、夕希の右側頭部に打ち込まれた。


 千恵は更に、右手で夕希の右の袖を、左手で夕希の奥襟を掴むと、夕希の横手に回り、左脚を引っ掛けて投げ飛ばした。


 夕希の身体が空中でくるりと一回転して、マットの上に落ちる。この時に、普通ならば手を放す所、千恵は夕希を開放せず、一緒にマットの上に倒れ込んで行った。二つの身体が絡み合うようにして重なって、マットの上に倒れた事になる。


「やめ!」


 真澄が駆け寄って来る。二人の身体を素早く分けて、立ち上がらせた。


「朝香、注意一! ……続行!」


 千恵の右ストレートが、夕希の顔面に、もろに入っていた。






 試合開始から、一分三〇秒が経過している。千恵は夕希を前蹴りでダウンさせた事で技ありを取ったが、夕希を投げた後に身体を浴びせに行ってしまった。これが危険行為と見なされ、注意を一つ喰らった。


 続行が告げられた直後、千恵のフェイントなしのパンチが、夕希のスーパーセーフを捉えた。夕希の頭が、がくんと後ろに倒れる。片膝を着きそうになった夕希であったが、ぎりぎりで堪えた。その、低い位置にある夕希の頭部に、千恵がローキックを叩き込んでゆく。


 顔の前に両腕をやってブロック、更に、無意識下ではあったが、夕希は後方に跳んで、千恵の蹴りの威力を殺していた。二回ばかりマットの上を回転しつつ、立ち上がる夕希。


 スリップダウンだ。判定にはならない。


 千恵のローが、夕希の脚を打った。

 夕希が下がってゆく。


 それを千恵が追い、もう一発、ローを放った。

 脛で、受ける。

 その受けた足で、千恵の下段に蹴り込んでゆく。


 千恵が受けた。

 その足を着地させず、スイッチして左右を入れ替え、左のパンチで顔を打った。


 夕希が、頭部のガードを固める。

 夕希のガードの上から、千恵が拳を叩き込んでいった。


 右。

 左。

 右。

 左。


 雨のように、千恵の拳が、夕希の腕に降り注いでゆく。


 夕希の身体が、パンチの衝撃の方向に細かく揺れる。揺れるそのたびに、パイルバンカーが地面に杭を打ち込んでゆくように、夕希の身体がマットに向かって沈み込んでゆく。


 夕希の帯の先端が、マットに触れた。


 千恵はそれを見て、拳を止め、代わりに右足を高く振り上げる。

 腕のガードの隙間から、夕希が千恵を見上げた。胴体とほぼ平行に、地面と垂直になった千恵の右足が、ギロチンの刃のように落下して来る所であった。


 咄嗟に、夕希が右側に跳んだ。直前まで夕希がいた場所を、千恵の踵が薙いでいった。マットに突き刺さる勢いで千恵の踵は落ち、蒼い表面に黒い跡が出来る程、強い摩擦が起こった。


 夕希が構える。しかし、その構えが全くなっていない。


 両腕で、頭をすっぽりと覆ってしまっている。それは良いのだが、ピーカーブーよりも更に視界が狭められており、特撮ドラマの主人公のマスクよりも視野が狭い。背は歪に折り曲げられている。膝も、撓められていると言うよりは縮められ、固められていた。


 戦う構えではなかった。

 二分が過ぎている。

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