怖いけど……でも
パート1
運動公園のサブアリーナ、その真ん中に作られた試合場の中心で、夕希は千恵と向かい合っていた。厚みがあるが、撓まないマットである為、試合場から出れば段差で躓く事になる。
夕希は、スーパーセーフとボディプロテクターを着けている。
千恵は、肘と膝にサポーターを填めていた。
それ以外は、空手衣と力神会OFグローブという装備で、統一されている。
夕希が白帯で、空手歴は一ヶ月半、千恵が黒帯で、空手歴は少なく見積もっても四年以上。その経験の差から来る実力差を考慮しての事である。
千恵の拳や肘が、慣れない夕希の素面に直撃すれば、グローブの事はあってもダメージが大きい。膝が胴体にめり込めば、激痛にのたうち回る。
その危険を、肘と膝のサポーター、スーパーセーフとボディプロテクターで緩和している。
数値だけを見れば、夕希の方が有利であるかもしれなかった。
夕希はこの一ヶ月で、身長が二センチ伸びた。体重は空手を始める前より三キログラム落ちた。しかし、二の腕や太腿、腹回りの余計な脂肪の事で言えば、五キロ減少している。二キロは、筋量でアップしている分だ。
それで、身長は一五六センチメートル、体重は五四キログラム。
外見の事を言えば、四月初めの頃よりウェストや四肢がシェイプされて引き締まり、胸筋の発達の為にバストがより強調されるようになった。トップは変わらないが、アンダーでは幾らか大きくなっている事になる。ヒップも少し垂れ気味であったのが持ち上がった。
一方、千恵は、身長は夕希と同じだが、体重では七キロも軽い。元から贅肉が殆どなく、引き絞られた筋肉と皮膚の隙間に、薄っすらと脂肪の層を忍ばせるに留めている。
女子高校生の部のウェイト制に当てはめれば、夕希は五〇キロ超級、千恵は五〇キロ以下級にカテゴリーされる。
打撃の威力は、質量×速度で表される。だから、数値だけを見れば、質量、体重のある夕希の方が有利であると言うのだ。しかも夕希は防具でウェイトを水増しし、防御力を高めている。千恵の方が軽いし、筋量も多いので、質量を速度で覆す事は出来るだろうが、自分と相手がそれぞれ装着した防具の為、威力は弱まる事になる。
しかし、それでも――夕希は、千恵が怖い。
防備が分厚くとも、自分の方がウェイトがあろうとも、千恵は自分よりも最低二四倍の時間をその拳に宿している。少し黄ばんだ程度の夕希の道衣と、元の色が分からない程に色が落ちて、汗や垢が染み込んだ千恵の道衣とでは、全く重みが異なる。
何より、千恵は教える側だ。教わる側の自分よりも、多くの事を知っている。
自分には書けない漢字を、解けない数式を、分からない英文法を、知らなかった地理や歴史を、憶えられない元素記号を、教師たちは書き、解き、分かり、知り、憶えているように。
千恵も亦、夕希の知らない事を知っている。この試合という場所に於いて、それは何よりもはっきりとしている事だ。
その未知の部分を、夕希は、恐れている。
恐れているが、しかし――
スーパーセーフの、プラスチックの面当ての中で、響いて来る心臓の音を聞きながら、夕希は東堂真橘の言葉を思い出していた。
実際に会った時に言われたものではない。格闘技関係のテレビ番組、『Fighting Dreamer』の中で、インタビューに答えていたものだ。
いつも真橘がランニングに使っている、町の湖がある。隣県から流れ込む川の行き着く大きな湖で、その湖を擁する県の公園は、世界で二番目に大きい。その湖の周りを走るのだ。これに、カメラとインタビュアーが同行し、湖の傍で休憩した真橘が、カメラとマイクに向かってこのように言ったのだ。
“戦わない事は、敗ける事です”
どういった質問に、そう答えたのかは、憶えていなかった。が、真橘が語った言葉は、しっかりと憶えていた。
“相手に敗けるっていう事じゃありません。誰かに敗ける事はなくはないでしょう”
“でも、他の人に試合で敗けたからって、それは敗北じゃありません”
“私の心が折れない限り、決して、敗けるという事はありませんから”
“但し、戦う事を放棄する事は、敗ける事です”
“自分に、です”
“試合に敗ける事が怖くて、戦わないという事は、自分に敗ける事なんです”
“試合に敗けても立ち上がる事は出来ます。でも、自分に敗けたら、そこでお終いです”
“だから、戦わない事は、自分に敗ける事――自分に敗けるというのは、心が折れる事です”
そう言っていた。
まさに、この場がそうであった。
千恵と戦ったって、勝てる訳がない。
千恵が攻撃も防御もせず、急所をがら空きにしているというのなら別だが、これは、試合だ。
戦いの中で何もしないという攻防が、ないとは言い切れない。しかし、最初から夕希の攻撃を受け、技ありや一本を獲らせる為に、そういう事をするのは絶対にない。
わざわざ、試合では使わない防具を着けさせているのだから、それは、素面でやれば怪我をする事が確実である――そんな技を使うという事に他ならない。
千恵が本気になったら、夕希が勝てる訳がないのだ。
しかし、だから戦わないというのは、今までの夕希と同じだ。
自分を変える為に始めた空手を、一ヶ月半学んで、何も変わらなかったなどというのは、空手を教えてくれた千恵たち指導員、共に技を学んだ鈴子などの先輩たち、道場に通う事を許してくれた両親、そして何よりも、自分自身を裏切る事になる。
自分への裏切りは、一生、心に残る傷となる。その傷が、心を折ってしまうかもしれない。
戦わなかったというたった一つの後悔が、二度と立ち上がれない心の傷となってしまう。
そうならない為に、夕希は、千恵と戦う事を、決意した。
勝てなくとも――
怖くても――
私は……
「始め!」
どんっ……
真澄の号令と共に、太鼓が打ち鳴らされた。
先に、夕希の方から飛び出して行った。腋を締め、両腕で頭部をカバーしながら、突っ込んでゆく。
千恵が前に出している左脚に、右のローキックを打ち込んでいった。背足ではなく、脛で蹴り付ける。試合慣れしていない夕希では、背足で蹴りにゆけば足の指を折ってしまうかもしれなかった。
千恵は軽く前に出て、打撃点をずらした。夕希の右の脛の、膝に近い部分が、千恵の太腿に当たった。ダメージはなく、夕希の方が重心をずらされて体勢を崩し掛けた。
近間に入られていた。突きよりも更に近い、肘や膝の間合いだ。千恵の左のショートパンチが跳ね上がるか、右の肘打ちが下からせり上がって来そうであった。
夕希は蹴りに使った右脚を背後に引きながら、同時に左の拳を放った。大振りなパンチであったが、それだけに威力自体は高く、OFグローブ越しにでも、充分にノックアウトを狙えそうであった。
千恵が、右の掌底で夕希の胴を押した。掌底を使って相手を押す事はウェイト制では反則になるが、無差別級・真剣勝負ルールでは禁じられていない。これで千恵と夕希の間に距離が出来、夕希の左のパンチは空を切る事となる。
と、と……と、後ろに下がってゆく夕希。パンチに合わせて身体を押されたので、予想外に体勢を崩してしまった。そうしてそのまま、足を滑らせて、尻餅を付く。
千恵と真澄の様子を見ながら、すぐさま立ち上がった。一秒掛かっていない。技ありではなくスリップダウンであった。
千恵が、スタンダードに構え直している。攻めて来ない。
立ち上がった夕希は、膝でリズムを取りながら、左右に細かく動いて千恵を撹乱し、ガードの隙間から蹴りを叩き込んでゆこうとした。
千恵はガードを解かない。夕希は、遠い間合いから左足で踏み込んで、千恵の右側に寄った中間の間合いに入り込んだ。
千恵の右太腿の裏側――白海に蹴りを打ち込んでゆく。
千恵は右足を引きながら、左手を内側に回して、夕希の蹴りを外側に弾いた。夕希は千恵に対して身体を開く事になり、千恵は夕希に対して半身になっている。どのような攻撃でも入ってゆきそうであった。
夕希がすぐに構え直す。詰めた間合いが、これでチャラになった。
そこに、千恵が攻めてゆく。ふわりと前進して、下段蹴りを放った。夕希の左の太腿を、撫でるように千恵の右足が打とうとした。
夕希が左脚を持ち上げ、脛で蹴りを受ける。定石通りの受けを、夕希はそれなりにものにしていたようである。
千恵の、加減はしたものの速さとしては一級品であったローを、夕希がガードしたのを見て、他の者たちが小さく息を呑んだ。千恵からの追撃がなかったとは言え、夕希はそのローをガードして、大してバランスを崩さなかった。
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