パート5
土曜日――
午前中の稽古の為に、夕希が運動公園の体育館サブアリーナに行くと、いつも使っているその空間がぴりぴりとした雰囲気に包まれていた。
千恵を始めとした初期メンバー、真澄、絵梨佳、鈴子、咲、あやね、涼子、マリー、智香、加代子……その他にも、まだ夕希と言葉を交わした事のない門弟も揃っていた。彼女らの、いつもの真剣な中にもフレンドリーな色のある空気が、今日に限ってはやすりのようにざらついていたのである。
どうしたのかと思いつつ、夕希は空手衣に着替え、ストレッチをやり、基本稽古の為に整列する。普段通りのメニューをこなしたが、今回は、絵梨佳と真澄が主に指導をやった。千恵も参加はしていたが、適度に力を抜いて、身体を温めるだけに留めているようであった。
基本稽古、移動稽古、型稽古、ミット打ち……と、いつもならこの辺りで組手の稽古に入る訳だが、今回はそうではなかった。それまで余り前に出て来なかった千恵が、ミットを片付けさせて、
「試合、やるから」
と、言った。
「試合?」
夕希が首を傾げていると、真澄と絵梨佳が、タイマーを持ち出して――いつも組手の時に使っているものだが――、その他に、スーパーセーフとボディプロテクターを一組、オープンフィンガーグローブを一対、サブアリーナの真ん中に持って来た。そうして、
「夕希」
と、真澄が呼んだ。
「押忍……」
訝りながらも真澄に近付いてゆくと、他の者たちがアリーナの隅に下がってゆく。壁際に並び、絵梨佳が彼女らを座らせた。足を崩すように言っている。
「あの……試合って?」
「私と」
千恵が、真澄からオープンフィンガーグローブを受け取った。OFグローブとは、通常の手袋のように、五本の指がそれぞれ出るようになっているグローブで、ボクシングのそれよりは勿論の事、いつも使っている拳サポーターよりも指の可動域が広い。
これは特に力神会の公式戦でも使われているもので、拳頭のクッション部分の空気圧を調整する事で、実際に相手を打撃する感覚を残しながら、相手を怪我させない為の配慮が成されている。
「千恵先輩……師範代と⁉」
「そ」
グローブを装着した千恵が、軽くストレッチを始めた。脚を伸ばし、腕を伸ばし、軽くジャンプして身体を整える。
「ルールは、力神会公式の真剣勝負ルールで行ないます」
真澄が言った。それに、あらかじめ聞かされていた者たちも、後から来た為に今の状況を飲み込み切れないでいる者たちも、小さくざわついた。
指導員の千恵と、空手歴一ヶ月半の夕希が、試合を、しかも真剣勝負ルールで行なうという事に対して、当事者でなくとも戸惑いを隠せないのだ。いきなりそのような事を言われた夕希の困惑は、それよりも大きいであろう。
「夕希は、初めてよね」
真澄が、ルールについて解説を始めた。
先ず、力神会はフルコンタクト系の流派である。公式の大会では二つのルールがあり、ウェイト制と無差別級だ。後者が真剣勝負ルールと呼ばれるものだ。
ウェイト制はその名の通り、体重別に分けられている。
無差別級・真剣勝負ルールは、体重制限も含めて多くの規制を削ぎ落としたものである。
ルールに共通するのは、
一、試合時間:本戦三分、延長二分、再延長一分
一、決着方法:一本勝ち、技あり二本による一本勝ち、反則による退 場、体重判定
これらである。
一本は、戦意喪失による三秒のダウン。
技ありは、三秒未満でダウンから立ち上がった場合と、相手が立ち上がる前に攻撃を寸止めで当てた場合。
主な決まり手は、反則部分を除く相手の体への突き、肘打ち、蹴り、膝蹴りなどの打撃によるダウンである。
反則行為となるのは、反則技を繰り返した場合、技の掛け逃げ、つまり相手を倒そうという意思が感じられない試合をした場合、場外へ逃げる行為を繰り返した場合であり、二度の“注意”で“減点”、三度目の“注意”で“失格”である。
反則技・反則となる部分は、後頭部、咽喉、金的、膝関節への打撃、タックルからの組み付き、倒れた相手に対するものや、背後からの攻撃が共通項であり、ウェイト制では、頭部への手を用いた打撃、相手の身体や着衣を掴み、投げる事などが禁じられている。
無差別級・真剣勝負ルールでは、頭部へのパンチや手刀、掌底、肘打ち、瞬間的な掴みと、投げ技が解禁される。
「装備についてですが、夕希は、今回が初めての真剣勝負ルールであり、朝香師範代が相手である事も考慮して、スーパーセーフとプロテクターを着用、朝香師範代は肘と膝サポーターを着用して頂きます」
本来の装備は、ウェイト制ではスーパーセーフ、又はヘッドギア。ヘッドギアは頭部に装着する防具全般を指すが、スーパーセーフは特にプラスチックのマスクで正面を覆ったものである。
真剣勝負ルールではこれらを使わない代わりに、力神会OFグローブを装着する事になっている。頭部を開放する事から、真剣勝負ルールでは眼突きや髪を掴む事も反則である。
「少しの反則なら、大目に見るって事でジャッジしてね」
と、千恵が言った。
「師範代のですか」
などと真澄が訊くので、
「夕希の」
当たり前のように、千恵が言った。
「そういう訳だから、特に、気負わず、いつも通りにやれば良いよ」
千恵は夕希に言う。
「押忍……」
返事をするも、まだ、夕希はいまいち理解し切れていない。ルールを憶えはしたが、このマッチメイクの意図を図りかねているのだ。それは他の者たちも同じであり、小声で、夕希が千恵と試合を行なう事になった経緯について、勝手に憶測したり、白帯が黒帯と戦わせられる状況に同情したりしている。
「夕希……」
千恵が、肘と膝に、サポーターを着けながら言う。スーパーセーフやプロテクターを着用するとは言え、千恵の猿臂や膝蹴りを受ければ、夕希に怪我をさせてしまう。
それを防ぐ為に、夕希は打撃される部位に、千恵は打撃に使う部位に、それぞれサポーターを装備する。
「どうしても嫌だってんなら、やめても良いよ」
「え?」
「私とやるの」
「――」
そういう感情が顔に出てしまったのか。夕希は、確かに、進んで千恵と試合をやろうとは思わない。自由組手でこの相手とはやりたくないと思う事はあるが、千恵はそうではない。
が、試合――八分の力で、学習する為にやる組手とは違い、勝ち敗けがあり、一〇〇パーセントの力でやり合わねばならないものを、千恵と行なうとなると、躊躇ってしまう。
怖いからだ。
千恵の実力を知っている――千恵が、自然石や瓶を割るのを見ている。それが幾らデモンストレーション、パフォーマンスと言っても、一度覚えてしまった感歎を、そう簡単に掻き消せる訳ではなかった。
そもそも夕希にとっては、まだ帯の色はイコール実力である。中には、黒帯よりも強い白帯というのもいるであろう。昇級審査を受けず、何年もの間、ずっと白帯を巻いて来た者と、同じ稽古をしながら黒帯を貰った者であれば、単純計算で同じ実力の筈だ。
けれども半年も稽古をしていない夕希と、中学の三年間、これまでの一年間、どれだけ少なく見積もってもこの四年間が空手歴としてはっきりしている千恵の間の実力差は、明白である。
明らかに自分よりも強い事がはっきりとしている相手と戦う事に恐怖を覚え、戦いたくないと思うのは、当然の事であった。
“どうしても嫌だってんなら”
千恵は言った。普段は、
“嫌だなと思った時こそ、我慢する”
こう言っている。けれども、これは周りを奮い立たせる為の方便のようなものである。
どちらが本心なのか。
どちらも、本心なのだ。千恵自身は、後者である。だが、他の者にこれを押し付けたくない。
千恵は菩薩だから――と、周りは言う。菩薩とは、厳しい修行を乗り越え、凡夫よりも一つ上の段階に至ったものだ。千恵はそうやって努力を続けて来たから、それが当たり前であったから、凡夫から菩薩へと位を上げる事が出来た。
それは千恵が言うように、選ばれた者の特権だ。千恵が東堂真橘を天才と称したように、夕希たちは千恵を天才と称するのだ。
天才だから、周りには、自分と同じ事はしなくても良いのだと言える。天才という自覚のあるなしは兎も角、自分が辛いと思った修行を、他人に押し付けはしない。
だから、嫌ならば断っても良い。
ここまでしてやったお膳立てを、全部、無駄にしても良い。
誰もが、そう思っている。真澄も、鈴子も、マリーも、それを責めはしない。寧ろ、断るべきだと考えている者もいるかもしれない。
相手を怪我させないように防具を着ける――逆に言えば、防具を着けなければ相手を怪我させるだけの力を、この試合に注ぐという事だ。本気でやるという事だ。夕希に多少の反則を許可するような発言をしたのも、反則でもしなければ無事では済まないと、暗に言っているようなものであった。
まだ経歴の短い夕希に、そんな試合を経験させてしまう事が、得策とは言えない。それは誰だって分かっている。千恵だってこの間の一件で、分かっている。分かっているが、千恵以外の人間は、師範代である彼女が言うのであれば、本来は“押忍”と言って頷くしかない。その“押忍”以外の選択肢を、用意してくれている。ならば、そちらを選ぶ方が正しい筈だ。誰もそれを責めない――
「……やります」
夕希は言った。
「やります、私」
「――うん」
千恵が、グローブを手に填めた。
「やろう」
サブアリーナの中央に、蒼いマットが敷かれている。汗が染み込み、まだら模様が出来ていた。柔らかいとは言えないし、思い切り叩き付けられれば激痛に悶える。が、少なくとも体育館の床に投げ落とされるよりはまだダメージが少ない。
そのマット――試合場の中心で、千恵と夕希が向かい合っている。OFグローブを共通で装備し、千恵は肘と膝のサポーター、夕希はスーパーセーフとボディプロテクターをそれぞれ着用している。
二人の間から少し下がった所に、真澄が立っていた。ジャッジをする為だ。普通、試合では主審一人と、二人か四人の副審がいる。今回はそれがない。真澄は、試合の開始と終了を告げ、最中には両者の反則を見極める為にいるのであり、勝敗を判定する必要がないからだ。
勝敗は双方で決める。いや、勝敗をはっきりさせる必要がなかった。
夕希は、段々と分かり始めていた。千恵の意図が何処にあるのか、だ。
“あ、いえ……私、本当に、その……”
“強くなれているのかなって”
“若しかしたら、あの時と、何も変わってないんじゃないかなって、思ってしまって”
そんな事を、軽はずみに言ってしまった為だ。
それが事実であるとなしとに関わらず、そんな風に思ってしまうという事は、千恵の指導を無駄にする事だ。だから、千恵は怒って……という訳ではないが、そうではないと夕希に言い聞かせる為に、この試合の場を作った。
そういう事だろう。
あの時と同じだ。空手をやれば強くなれるのか――その問いに、やってみなければ分からないと答えた時と同じ。自分は強くなったのか、夕希のその問いに、やってみなければ分からないと答えたのだ。
やりたくないのなら、それは、それで、良い。
だが、ここでやらなければ、夕希は何一つ変わっていないという事だ。
戦わなければ、いけなかった。
何故、空手を始めたのか――
強くなる為だ。
怯えない為だ。
恐怖しない為だ。
今までの、弱かった自分を、変える為だ。
だから――
「互いに、礼」
真澄が言った。
強くなりたいという思いを込めて、頭を下げた。
「構えて」
半身になる。
変わりたいという誓いを立てた、拳を構える。
「始め!」
どんっ……
太鼓が、打ち鳴らされた。
踏み出さなくては変わらないと、教えてくれた。
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