パート4
残りの連休は、殆ど家で過ごした。
一晩中、サンドバッグに向かい続ける――例え身体は倒れていても、意識ばかりは休む事なしにパンチや蹴りを繰り出し続けた。この無茶が、空手の運動に慣れ始めていた夕希に響き、歩く事すら苦痛に感じてしまう程であった。
録画を貯めていた深夜アニメをここぞとばかりに見ていると、両親や妹からは、今までの夕希と同じだと何となく安心された風であった。
ゴールデンウィークも終わり、学校が再開した。
休み明けから、中間テストの準備をしなければならない。高校に入ってからの授業の内容での、初めてのテストという事になる。
夕希が空手を学ぶ条件の一つに、悪い成績を取らないようにするというものがあったので、テストが終わるまでバイトを休む事になった。千恵がいるので、かなり融通を利かせてくれる。この日が、一時的な休暇の前の最後のシフトであった。
夜――
夕飯や夜食などを買いに来る客らのピークを越え、ぽつぽつと、近くで工事をしている作業員が煙草や飲み物を買いに来たり、仕事終わりのサラリーマンが食事と共に大衆誌などをレジに持って来たりする。
「千恵先輩は良いんですか?」
夕希が、値札を張り替える作業をしながら訊いた。扱っているポイントカードに貯まるポイントが倍になる商品が、隔週で変わる。その作業であった。
「良いって?」
千恵は、レジの横手のホットスナックを調理している。いつも、この時間にやって来て、フランクフルトを頼む客がいる。その客の為に、在庫を補填して置くのであった。
「テストの事です」
学年は違っても同じ時期に試験がある。夕希はテスト勉強の為にシフトを外して貰っているが、千恵は、変わらずに出勤する予定が入っている。何なら試験期間にもシフトを入れてくれても構わないと店長に言っていた。
「平気だよー。私、そもそもあんまり成績良くないし」
「よ、良くないんですか。それじゃあますます勉強した方が良いんじゃ……?」
「特に数学が駄目でねぇ」
「はぁ……」
「まぁ、他は暗記でどうとでもなるから」
「暗記ですか?」
「うん。そーだ、夕希ちゃん、高校のテストの賢いやり方を教えて上げるよ」
「あっ、ありがとう御座います」
「基本は暗記。授業でやった事をきちんと聞いて、ノートを取っていれば……教科書を眺めていれば、それで充分だよ。ノートに書くのは、自分への刷り込みって奴だね」
「刷り込み……」
「先生方は授業でやった事しか問題にしないから。何せ高校のテストってのは、生徒たちの学力を確かめる為ってよりか、“私、生徒たちにこれだけ教えられましたよ”っていう先生たちの学芸会みたいなものだからね」
「学芸会って……」
千恵の歯に衣着せぬ言い方に、夕希は苦笑した。
「だから、数学は出来ないんだ」
「え」
「うん。ほら、教科書に一+一って問題があっても、テストだと一+二、二+三、三+四……って、同じロジックでも違う数字にすれば、答えが違って来るでしょ。教科書の内容がそのまま出る他の教科は兎も角、数学は応用が必要だからね」
「はぁ……」
そのような話をしつつ、時折の来客に対応しながら、上がりの時間が近付いて来た。
その夕希がレジの奥に下がろうとした直後、扉が開き、来客を告げるメロディが鳴った。
「いらっしゃいませ」
と、言い掛けた所で、夕希が言葉を詰まらせた。
「いらっしゃいませ」
千恵が、夕希が言い淀んだのを隠すように声を上げ、引っ込もうとしていた夕希の腰に触れた。改めて、
「いらっしゃいませ」
と、夕希。
すると、今し方、入り口を潜って来た客が、
「へぇ、千恵、あんた、ここで働いてたんだ」
と、言った。
佐藤カリナが、夕希も見憶えのある長髪の男と共に来店した。
「まぁ、ね」
「ふぅん……」
カリナは、千恵から夕希に視線を移した後、店内を物色した。そうして、化粧品や生理用品、雑誌などを、連れの男に渡し、男はアルコールやツマミを籠に入れて、レジに持って来た。
千恵がバーコードを読み取ってゆくその正面に位置する男の横から、カリナが、レジの方に身を乗り出して来た。夕希が、奥に戻ろうとしている所であった。
「ねぇ、あんた」
カリナが、夕希に言う。
「あんたさ、瑞穂ちゃんと同じクラスでしょ」
「は、はい……」
何処となく怯えた様子で夕希。カリナだけであれば、どうとも思わなくなっていたが、あの長髪の男が瑞穂の鼻を負ったシーンを思い出すと、どうしても声が震えてしまう。
あの時の事を見ていない事になっているのだから、長髪の男に怯える理由はないように振る舞うべきなのだが、そう意識すればする程、声に恐怖が混じりそうであった。
「あの子さ、どうよ、様子」
「様子ですか……」
「そ。なぁんか、変わった事とか、ない」
「特に、そういう話は、聞いていません」
それは事実である。夕希は、学校では余り人と話さない。夕希の声を知っている同級生の方が稀であろう。千恵と話している所を見られて、
“星崎さんって、先輩と仲良いんだね”
と、言われてから、千恵とも、学校では出来るだけ顔を合わせないようにした。
そんな夕希であるから、瑞穂とも、口を利いていない。
「ふぅん……」
カリナは、じっとりとした眼で、夕希を眺めた。あの眼は知っている。瑞穂に詰め寄った時と同じ眼だ。カリナは、瑞穂の為に救急車を呼んだのが誰かという事には興味がないにしても、夕希はあの場面を見ていたのではないかと、疑っているらしい。
「――円になります」
千恵が、男から金を受け取り、ビニール袋に詰めた商品と、釣り銭、レシートを手渡した。そうして、まだ夕希を見ているカリナに、
「まだ、あの子にちょっかい掛けてるの」
「あの子?」
「木村さん」
「何さ、ちょっかいって」
「自分の胸に訊いてみれば」
「心当たりはないなぁ。……それより、店員がお客さまにそんな口聞いて良いのかな」
「お客さまは神さまです、って?」
「そういう教育、この店ではしてない訳?」
「コンビニ如きに何を求めてるの、貴女は。それは兎も角、私の神さまの捉え方の問題かな。神さまっていうのは、偉い人じゃなくて凄い人。表するのは敬意よりも親しみだと思うね」
「日本人的だね……」
「日本人だからね」
「でも、今の
「だとしても、問題はないね。私は、鬼だから」
「鬼?」
「鬼は神。つまり、私は神さまと対等って事」
「鬼、ねぇ。……それは、空手のって事?」
「そ」
「ふん……」
「ふふっ……」
二人は、遊ぶように言葉を繰り出していた。別に、相手を攻撃する心算でやっているのではない。寧ろ、楽しげでさえあった。
意外なのは、カリナを警戒するように言っている千恵も、顔を合わせれば千恵に嫌味のような事を言うカリナも、どちらもこの時ばかりは悪意を殆ど孕んでいない事である。それこそ、幼稚園児のように、覚え立ての言葉を使って、楽しく積み木をいじっているようであった。
カリナが適当な所で言葉遊びを切り上げ、千恵が頭を下げてそれを見送る。
「……凄いなぁ」
ぽつりと、夕希が言った。
「え?」
「千恵先輩、やっぱり、凄いです」
「凄い?」
「さっきの人……これ、ですよね」
“これ”と言う時、夕希は、頬に指を当てて、顎の方まで引く。やくざを意味するサインだ。
「だろうね」
千恵が頷いた。あの長髪の男、外見は単にちゃらついているだけにしか見えなかったが、何処となく怖いものを、見えない衣として纏っているようであった。
「なのに、あんな……」
巧く言えないが、そういう人間と関わりのある千恵と、他の人たちにそうするように、言葉遊びが出来るというのは、夕希にとってはとても凄い事のように思えた。
「そんな事、ないよ。前も言ったと思うけど、やくざったって、常日頃から
「それでも……」
そう言い掛けて、夕希は、同じような会話をした事があるのを思い出した。大体、一ヶ月前の事だ。瑞穂が鼻を折られた翌日、その鼻の治療をして投降した瑞穂に詰め寄っていたカリナの前に現れて、カリナに警告した千恵の様子を、夕希は見てしまった。その夜、瑞穂がカリナたちに囲まれた場所で、訳もなく涙をこぼしていた夕希は、千恵に見付け出され、その先で、千恵に訊いたのだ。
“先輩は、その、どうして、あの人の前で、あんな態度が採れたんですか”
千恵は、これに対して、空手をやっている人間であるからと答えた。自分も、空手をやれば千恵のように強くなれるかと問い、やってみなければ分からないと言われ、自分の可能性を試すように、力神会に入門した。
その時と同じような問答を、繰り返していた。一ヶ月、空手をやって、白帯は白帯なりに、多少の自信も付いて来た筈であったが、その実、何も変わっていない。
そんな気になってしまった。
「夕希ちゃん?」
千恵が、夕希の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ……私、本当に、その……」
夕希は、迷いはしたものの、それを口に出していた。
「強くなれているのかなって」
「ん……」
「若しかしたら、あの時と、何も変わってないんじゃないかなって、思ってしまって」
「んー……」
千恵は、夕希の意図を汲み、腕組みをして、唸った。
そうして、
「――夕希ちゃん、今度の土曜日、来るよね」
「は……押忍」
稽古の事だ。試験は来週の月曜日からで、現国・古文・数学・英語・英会話・世界史・科学の七教科を、四日間に分けて行なう。その為、次の土曜日がテスト前最後の稽古になる。
最初は休もうかとも思っていたが、テスト勉強のリフレッシュには稽古に参加するのが良いであろうと思い、ここで千恵に言われた事もあって、それを決めた。
「良し……じゃあ、そういう事で」
千恵は独り頷いた。そうして、次のシフトを割り当てられているバイトがやって来たので、制服から着替えて、店を出た。
「じゃ、次の土曜日」
と、千恵は、帰路に就いた。夕希も、同じく自宅を目指して歩き始めた。
夏の足音が近付く、嫌なぬめりを帯びた夜の温度であった。
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