パート3

「サンドバッグ?」


 千恵が真橘の方に、首を傾けた。それから夕希に、


「サンドバッグ叩いてたの?」


 と、訊いた。夕希は、それで昨夜の事を思い出したらしく、


「押忍……。千恵先輩から、時間がまだ少し掛かるって聞いたので、掃除をして、その後、少しサンドバッグを……」

「汗で水溜りが出来るくらいでしょ⁉ す、少しじゃないじゃん……」

「いや、でも……」

「え! つまり、一晩中、サンドバッグを? あ、でも、倒れてたって事はそういう訳じゃないのか……」


 そこで、又、真橘が言う。


「多分ね、倒れては、起き上がって、叩いて、また倒れてってのを繰り返してたんじゃないかな。私が聞いたのは、その音だと思うし」

「ん――! つまり、こういう事? 夕希ちゃんは、昨日、私から連絡が行くまで、サンドバッグを叩いていた。でも、夢中になっていたから、私からの連絡にも気付かず、りき入れ過ぎていたから倒れた。そのタイミングで見回りの人が来てスルーされて、その後でまた起き上がってサンドバッグを叩き、体力を使い果たして倒れた。でも、また起き上がって……」

「そういう事になるんじゃないかな」


 千恵が考察した事を、真橘が肯定した。千恵は、平然と頷く真橘と、自分の事であるとは思えないという顔をしている夕希の顔を見比べた。


「そういう事なの?」

「わ、分からないです……」


 そう言った夕希だが、


「あ、でも……何となく、憶えている事は、あります」

「え?」

「その、まだ駄目だって、思いました」

「まだ駄目?」

「はい。その……サンドバッグを叩いている時、佐藤先輩の顔が浮かんで来たんです」


 他にも、瑞穂や、カリナに命じられて瑞穂の鼻を追った男たち、千恵や真澄などの先輩や同門たち、両親に妹、それに自分の顔までも、サンドバッグの表面に浮かんで来た。


「それで、悔しくなったんです」

「悔しく?」

「いつか、佐藤先輩が、千恵先輩に言っていた事です。試割りが、デモンストレーションでしかないって。あんな事をやって、悦んでいるのかって言われた事……あれを、くだらない事だって、佐藤先輩に言われた事が……悔しくて、腹立たしく感じたんです」

「――」

「そしたら、やめられなくなってしまいました。ここでやめたら、駄目だって。ここでやめたら、私、何にも成長してない事になっちゃうんじゃないかって。……それに、千恵先輩、言っていたじゃないですか。もう駄目だって思ったなら、まだやれるって。嫌だなって思った時こそ、我慢するって」

「……それは」

「強くなろうって、言ってくれました」

「――」

「――だから、私」

「夕希ちゃん……」


 千恵は、夕希の言葉を遮って、彼女を優しく抱き締めた。


「ご免ね、私、貴女の事を追い詰めていたみたい」

「ち、千恵先輩?」

「そっか。そうだなぁ……夕希ちゃん、抱え込むタイプなんだ。独りで、自分を追い込んじゃうタイプなんだな。うん、ご免ね。それが分からなくって、分かって上げられない駄目な先輩で、ご免ね」

「そんな事……」

「鬼か……」


 千恵は、昨夜、真澄に言われた事を思い出した。自分が、他の者たちから見れば菩薩――厳しい修行を乗り越えた人間であるからこそ、他人にも同じ事を強要しているように感じられてしまう。


 自分にとっての当たり前を、空手を始めたばかりの夕希に押し付けてしまったようであった。


 確かに、夕希が目指したのは、千恵と同じ場所である。けれども夕希はまだまだ、千恵の段階にはいないのだ。千恵にも、夕希と同じ時期はあったであろうし、その時に、今の自分と同じ事は出来ない筈であった。


「あんたに会ったのが、もう少し早かったら、こんな事にはならなかっただろうね」


 千恵は夕希から離れて、真橘を眺めた。真橘が、千恵の言葉を理解しかねている。


「良い、夕希。私が言ったのは、飽くまでも理想論。現実的じゃない事なんだよ」

「理想論?」

「そ。普通はね、何処かでブレーキが掛かるの。いや、掛けるべきなの。オーヴァーワークって言ってね、余りにも身体に負荷を掛け過ぎると、強くなる所か、逆にぶっ壊れちゃうんだよ。刀だってそうでしょ? 鉄を熱したり、冷やしたりを繰り返しながら、金槌で打つ。刃が出来上がってからもそれをやり続けたら、ぽっきりいっちゃうよね」

「はい……」

「そういう事。私が言うようなのを真に受けるのは、極々一握りの莫迦……じゃなくって、天才に任せて置けば良いんだよ」


 ちらりと、千恵が真橘を流し見た。


「莫迦って私の事ー?」

「天才って言ったと思うけど」

「紙一重って言うよね。つまり、朝香さんは、私の事を莫迦だって思ってるの?」

「空手バカは、空手家にとっては、最高の称号じゃない? ……ってか、私が言ってるのは、大体があんたの受け売りだし」

「そうなんですか?」


 夕希が、真橘を見上げた。


“もう駄目だと思えるなら、まだやれる”

“嫌だなと思った時こそ、我慢する”


 そうした言葉は、真橘が常日頃から言っていたものであるという。


「そ。ぜーんぶ、この子の所為」

「私の所為って……酷いな、朝香さん」

「夕希ちゃんは、あんたに下手げに憧れちゃったから、空手を始めたんだよ。だからって、ぶっ倒れるまでサンドバッグ叩くなんて所まで、真似しなくて良いのに」

「と、東堂さんも、同じ事を……?」

「私じゃないよ、それ」

「あれ、違ったっけ。じゃあ、あれだ。皆でランニングやってたら、きつ過ぎて周りが全員脱落してくのに、あんただけ残って走り続けてたら忘れられて、一晩中走ってたっていう」

「それも私じゃないよぅ。後、手の皮がズル剥けになっても懸垂やめなかったのも、私じゃないからね」


 ついでに言えば、自分が千恵に教えた言葉の多くも、受け売りである――と、真橘。


「剥けるのかよ、あんたの手……」


 千恵が言うので、夕希は真橘の手を見た。年頃の少女とは思えない、指の太さと掌の分厚さである。


 ピアノを弾くには繊細な細い指先よりも、指を遠くの鍵盤まで伸ばす事の出来る大きな掌が良いと言うが、真橘の手は芸術家としても理想であるように思えた。


 そして、その丸みを帯びた、赤ん坊がそのまま大人になったような手は、芸術品そのものでもあった。


「そりゃ、最初からこうだった訳じゃないし」


 と、真橘が拳を作ってくれたのは、夕希にとって僥倖であった。太い指と厚い掌が作り出す拳は、打撃に使う人差し指と中指の付け根だけではなく、拳そのものが角を落とした球体であった。正拳突きの際には、あの拳が鉄球のように飛来するのだ。それが虚空を裂く光景を幻視し、恍惚に浸りそうになると共に、それがボディに喰い込んだらと思うとぞっとした。


 正拳突きとは言うが、“正しい拳”という割には、流派によってやり方が違う。拳を縦にして真っ直ぐ最短距離で打ち出す、直突きが正拳であるという流派もあれば、足からのひねりを螺旋状に伝えるコークスクリューがそうである流派もある。


 しかし、真橘の拳はまさに正拳……パンチを打ち出すのに、これ以上ない正しさを持っているようであった。


「それはそうと」


 千恵は一つ咳払いをして、夕希に顔を向ける。


「もう、無茶はしない。適当に、やる」

「てきとう……」

「適切って事さ。いい加減じゃなくて、良い加減。分相応な……自分の身の丈に合った稽古をする事……それが、今の夕希ちゃんがやるべき事だよ」

「――押忍」


 夕希は、千恵の言葉を噛み締めた。

 それを眺めて、真橘が、出口の方に足を向けた。


「じゃ、私はこれで」

「あ、真橘」


 ドアに手を掛けた真橘の背中に、千恵が声を掛ける。


「聞いての通り、夕希ちゃん、あんたに憧れて、空手を始めたんだ。だから、暇があったら、稽古つけてやってよ」

「天才の加減で良いの?」


 先程の千恵の言葉を受けて、意地悪そうな顔を、真橘は肩越しに見せた。


「教える側は天才で良いの。それを見て、私のような凡夫は覚えるんだから」

「分かったよ。その内、時間を見付けて、ね」


 真橘は、夕希に微笑み掛けた。


「またね、星沢さん」

「あ……押忍!」


 頬を染めて返事をする夕希に、手を振って、真橘が医務室を後にした。


 あの場所へ立ちたい――そのような、初めて抱く憧れの対象に出会い、同じ空間で言葉を交わした夕希は、とろけたような表情で、真橘を見送った。

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